布施の意味再考

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布施の意味再考

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2017/10/21 布施の意味再考

お布施について、以前も何度か書いておりますが、今一度、考えてみたいと思います。少し長くなりますが、ご容赦ください。

 

まず、私が常に申しておりますことは、お布施はサービスの対価ではなく、したがって料金表は、原則的には、ありません。

 

ただ、昨今、サービスと見る向きもあり、また、わかりやすいからと、料金表を示す業者も現れました。概ね好評のようです。

 

しかしながら、お布施は出す側の気持ちを示すものであり、さらにはある意味修行の面もあり、自分の可能な限りの私財を喜捨するものです。

 

余談になりますが、このことを悪用して多大な額を納めさせる宗教もあるやに聞きます。自分の本心から喜捨するなら全財産を差し出してもかまいませんけれど、人生に幸福をもたらさないほどの喜捨は宗教としてどうかと思います。

閑話休題。

 

お釈迦様は、王族からもらう多額の喜捨も、一介の老婆からもらう1本のロウソクも、同じ布施だとしておられますし、また、与えられたものは何でもありがたくいただかれたようで、お酒も飲まれたようですし、信者から振舞われた肉に当たって食中毒で亡くなったとの説もあります。

 

確かに、額が明示されているのは楽ですが、かといって、例えば年忌法要1回につき3万円とすると、では5千円とか1万円と思っている人は思い以上に多額の「出費」が必要になります。それなら5千円と明示すべきではないかというと、それはそれでコストに見合わない場合もあります。考えようによっては「5千円プラス交通費その他諸費用」とすることも可能かと思いますが、「諸費用」が曖昧で、結局何も明示していないに等しくなるかもしれません。

 

最近、私も檀家さんから「どれくらい包めばよいか」とたずねられることが多く、「お気持ちだけでかまいません」と返事してもあきらめて下さらず、「だいたい〇〇円〜××円の額を包まれる方が多い」と、相場をお伝えすることがあります。それがいいのかどうかはわかりませんが、少なくとも檀家さんに額を決めてもらう、ということだけは、堅持できているかなと思います。

 

いくらお気持ちだけで、と申しましても、霞を食って生きているわけにはいきませんので、ある程度以上はいただきたいのが率直なところですが、しかし、宗教はある意味、所得の再配分の面もあります。多額を払えない人の分は、たくさん喜捨できる方に負担いただく。お一人お一人のお布施の額ではなく、いただいたお布施全体で寺ならびに仏法を護持できればそれでいいのかなと思います。

 

蛇足かもしれませんが、たまに、値段はお客さんにつけてもらうというラーメン屋さんが話題になったりします。うまくいっているのかどうかはわかりませんけれども、あくまで一部のお店に限られるシステムのようです。ということは、やはり資本主義社会では、「サービス」の額を客が決めるというのは、難しいのでしょうね。店側も、寺と同様、コストを補うだけの額を払ってもらわないと困ります。

とは言いつつ、初めに値段をつけていて、それに見合う味でなければ、どのみち客は離れるでしょう。値段をつけず、その値段を客につけてもらうのは大変かもしれませんが、まさしくそれは「勉強させていただきます」の世界。一般的には勉強するのは店側の立場で、様々な状況に応じて、もう少し値引きさせてもらうという意味ですが、反面、客側も、サービス・商品の価値を自分で値付けするのは、まさしく「勉強」ですよね。

 

資本主義は合理主義ですので、このような「勉強」は不似合いかもしれません。でも、宗教においては、必ずしも合理主義ではありません。手を抜かず、どのくらい支払うべきかと考えてみるのも、勉強になるのではないでしょうか。

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