5月も半ば

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5月も半ば

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2018/05/13 5月も半ば

今年は異常気象ですね。毎年そんなことを言っているような気もしますが、いつにも増して寒い冬を越し、春は駆け足で過ぎたかと思うと、今度は三寒四温というには激しく寒暖の差を繰り返し、5月半ばの今日(5/13)、大阪では夏真っ盛りのような大雨洪水警報が発令されました。雨なのでいささかひんやりしましたが。

 

さて、法要もあり、佛華を活け替えました。母の日でもありますので、カーネーションも入れてみました。西洋のしきたりを、佛華に持ち込むなとおっしゃるなかれ。あまり親孝行をしておりませんので、気持ちだけでも表そうかと。

 

少し話は変わりますが、昔、こんな話を聞いたことがあります。地球から一番近い、地球に似た環境を持っているかもしれない惑星に行くことを計画した場合、もちろん光速を超えるエンジンが開発されればいいのでしょうが、まずそれは無理だとして、大きな宇宙船に大勢乗り込んで、食料も自給自足できるようにし、人間も船内で結婚し子供を作りながら何世代にもわたって(何百年何千年かけて)向かうというのが現実的であると。ただ、一番の問題は、第一世代、第二世代あたりまでは意気揚々と計画に取り組んでいたとしても、世代が下るにつれて「俺たちは一体何をしているんだ、なぜその星に向かわねばならないんだ」と悩み出し、計画が頓挫しかねないと。

 

今の日本、そのような状況と同じ感じを受けるのは私だけでしょうか。

 

未来永劫、日本という国を残さねばならないわけではないし、正直馬鹿げたことばかり起こる社会なんて、あまり興味はない。そう思っておられる方は多いのではないか。

 

世界の国々で、一番長く続いているのは、日本だそうです。だからなんだという話になりますが、少なくとも、私がここにいるのは、あなたがここにいるのは、これまで何世代と続くご先祖様が、生命の誕生、人類の誕生からこれまで、連綿と命のバトンを繋いできてくれたから。私たちが受け取ったバトンは、どこにゴールがあるのかもわからないけれど、兎にも角にも次の世代にバトンタッチする。そうあるべきなのですが、ただ、バトンタッチせよと言われても、まさしくどこにゴールがあるのか、どんなゴールが待ち受けているのかわからない中で、「なんで俺たち頑張ってるの?なんでバトンタッチしなければならないの?」と。それが証拠に、日本は世界的に見て際立って少子化社会です。

 

仏教は、もともと個人の幸せを追求するものですから、基本的には結婚せず、出家して、自分の人生だけを全うすればよい。しかし、それが無理なら、家族を持って、子供も設けて、そんな中での幸せを追求してもいいではないか。それが真宗の基本姿勢。ですので、結婚して家族を持ってもいいし、独身で家族を持たなくてもいい。どちらでも、本人が幸せならそれでいいのです。

 

国家なんて、そんな大事なものなのかどうか、民族なんて、そんなに重要なものかどうか、簡単には答えは出せませんし、単純に極論してしまえば、国家よりも民族よりも先に、個人の幸せの追求があってこそなので、個人を幸せにしない国家・民族なら、そんなものどうでもいいとも言えます。

 

いや、まさしくそうであるべきです。国家は、国民の守護者であるべきで、守護者でない国家は国家ではありません。もちろん国家が、国民に結婚しろというのもするなというのもナンセンスという考え方もあり得ます。プライベートに口出しするな、と。もっとも、私は、少子化をなんとかしようと国家が努力するのは、国民の守護者として必要なら、それをちゃんと説明できるなら、「結婚してね」と国民にお願いするのは、大事なことだと思っています。閑話休題。

 

いつ死ぬかは、自分で決められるわけではなく、そういう意味で個人個人の終着点も見えません。自分で定めた目標をクリアするかどうかはわかっても、それは悠久の歴史の中では短い短い1人生の中でもほんのちっぽけなこと。次の世代、その次の世代、その次の世代と積み重なっていく中で、どんなゴールがあるかは、全く見えなくても当然です。だからもういいやと思うのか、いや、それでもなおゴール目指して進もうと思うのか。

 

人間は、Uターンできない、してもらえない、死や老いへ一直線の電車、それも各駅停車でいつ降りなさい(寿命が尽きたよ)と言われるかわからない電車に乗っているようなものです。しかも乗り方は立っていようが座っていようが全員後ろ向き。進行方向は見ることができません。

 

しかし、命のバトンタッチをすることで、新陳代謝が起こります。誰かが降りたら、誰かが乗り込む。電車内に新風が吹きます。誰も降りなければどんよりとした空気が蔓延するでしょうし、誰も乗り込まなければ空いてきて一瞬楽な車内に思えても、がらんとして寂しい車内にもなっていきます。

 

母の日に当たって、ご先祖様に感謝の念を持ちつつ、子孫により良いバトンタッチができるようにしたいなと、そんなことを考えていました。あまり考えすぎてもいけないのですが、家族を持っていても独身でも、次の世代にどんなバトンタッチができるのか、それを考えるのは大事かなあと。米国の昔の大統領の演説になぞらえて言えば「子孫が自分に何をしてくれるかと考えるのではなく、自分は子孫に何ができるかと考えてみてほしい」というところでしょうか。

 

御仏の慈愛というのは見返りを求めません。自分の子供に対する愛情は、本来は御仏の慈愛に等しいものですが、ともすると老後の面倒を見てくれよという発想にならないとも限らない。自分の子供でも他人の子供でも、将来の年金を支えてくれる存在ですから(それを言えば見返りを求めていることになりますが)、見返りを求めず、慈しみ愛する心を持つべきだと、痛切に思う次第です。

 

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