命を生み育むということ

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命を生み育むということ

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2018/06/05 命を生み育むということ

最近、よく思うことがあります。

 

個人主義。お一人様。

 

独りであることは、決して悪いことではありません。両親がいてこそとはいえ、裸で、独りで、この世に生まれ出て、そして、裸で、独りで、お浄土に還るのです。これが全ての人間に当てはまること。独りであることは、宿命なのです。

 

しかしながら、この世では、家族の大切さはいうまでもありません。何も言わなくても食事が出てきて、風呂にも入れて、という物質的なこともさることながら、精神的な強さがある。

 

私ごとですが、私は1人っ子、子供は2人いますが、たった2人とも言えます。一人っ子は寂しいという思い、また子供への教育という面からも、兄弟は与えたいと思っておりましたので、なんとか複数になってよかったと思っています。本当は、もっとほしかったのですが。昔から、野球のチームができるほど子供がいたらなあと思っておりました。

 

繰り返しになりますが、1人が悪いわけではありませんし、1人は気楽でもありますが、大勢の方が気が楽な面もある。物質的なことを言えば、親は、確かに子供が成人するまでの20年弱は大変ですが、その後は1人よりも2人、2人よりも3人の方が稼げるということも言えます。子沢山ということは、それだけ働き手がいるということで、農業が主体だった時代は、まさしく大家族が理想的だったわけです。養う金がない、大学に行かせる金がないから子供は要らないというのは、決して論理必然ではないでしょう。

 

今や、家族ではなく、「孤族」が一般的になりました。それが悪いとは思わないけれど、文化の伝承にとってはデメリットでもあります。大勢で何かをするからこそ、次世代につながりますが、バラバラだと、例えば方言もかなり危なくなっていると言います。テレビの影響だけではなく、おじいちゃんおばあちゃんとゆっくり話をする機会があってこそ、古くからの言葉が伝わるそうです。それはそうでしょうね、両親から何らかの指示とかお小言で話されても、「記号」でしかなく、方言とは受け取れないでしょう。ゆっくりと、単なる記号ではない、コミュニケーションツールとしての言葉こそ、伝承されていく。

 

 天にも地にも、我独り。お釈迦様が言われたと伝わる「天上天下唯我独尊」は、よく傲慢だと誤解される言葉ですが、本来的には、一人一人の人間が尊いのだという意味であって、これは個人主義です。独裁ではなく、利己主義でもなく、全ての人間が一人一人尊い。互いを尊重してこその個人主義であり、互いを尊重しないのは、利己主義。
 今の世の中、利己主義がはびこっています。でもね、社会は1人で出来ているのではありません。私も、あなたも、彼も、彼女も、すべてから成り立っている。とすれば、私も大事だが、あなたも大事。彼も大事、彼女も大事。
 ちょっと話はそれるかもしれませんが、仏教には大乗仏教と小乗仏教があります。後者は、大乗仏教側が小乗仏教側を揶揄して名付けた差別的な言葉だということで、正式には上座部仏教とも言いますが、小乗、大乗というのは、その名の通り、1人で頑張って船を漕いでお浄土に向かうのか、皆で手を携えて、(阿弥陀様のお力にすがって)大きな船でお浄土に向かうのかの違いを指し示す言葉です。
 おそらく、お浄土にお迎えいただく際には、阿弥陀様のお力により一人一人個別にお迎えいただくのだろうという気はしていますが、それにせよ、この世では皆手を携えて、生きていくべきではないでしょうか。利己的な社会は、間違いなく滅びます。
 大家族。血統を重んじた浄土真宗は特にそうですが、命のバトンタッチをより大勢にしていくことは、功徳以外の何物でもない。この世に生まれてこそ、苦もあるが、楽もある。また、仏教に出会うというありがたいご縁もある。
 命のバトンタッチ。大家族。少子化の時代にあっては、こんなことを言っても共感いただけないかもしれませんが、私は、命を生み育むことは、何にも増して尊いことだと思います。

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