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批判ということ
平成31年が始まって、もう1月が終わろうとしています。平成ということだけで言えば、あと90日ほどしかありません。なんとまあ、時の流れの速いこと。
少し話は変わりますが、何かするときに批判はつきものですね。賛否両論もありますが、内情を理解しない(あるいは誤解している)批判も少なくありません。
以前からよく耳にするのは、大学がえらく綺麗になっている。あるいは、宣伝広告費にお金を費やしている。教員たちが研究費が足りないと嘆いているけれど、お金の使うところが違うのではないか。研究費が足りないと言っていても、同情できない、と。
私は大学にも所属しておりますので、ある意味聞き捨てならないわけですが、かと言って、的外れとも思いません。確かに、宣伝にお金をかけるくらいなら、より中身を充実して、それで人を惹きつけよ、というのは、寺でも言われることです。「寺院経営」にかまけるよりは、本当の仏教を追究し、それを実践していれば、皆ついてくる。以前、私が若かりし頃に、先輩僧侶と議論した中でも、私が「仏教を実践する中で、経済的な余裕は必要ではないか」という主張に対して、その先輩僧侶は「乞食坊主でもいいじゃないか、なぜ寺院を維持するために金儲けに走る意味があるのか」という反論をされました。
金儲けして仏法の大事なことを忘れるなら本末転倒ですが、「ボロは着てても心の錦」とうそぶいてみても、それでは人に通じない。どういった形であっても、あまり寺にアクセスしたことのない人に対して、宣伝であったり、見た目を目立つようにしたりということは必要ではないでしょうか。一概に、宣伝やハードの整備にお金をかけることが悪いとは思いません。要はバランスです。羊頭狗肉にならないように、見た目ばかりに気を使うことなく、でも、関心を持ってもらうように一定程度、見た目にも気を使う。
考え方の違いにすぎませんが、私は、見た目も大事だと思っています。「人は見た目が99.9%」ととまでは思いませんし、人間社会の常識にくさびを打つのが仏教界だとすれば、見た目を絶対視はしません。でもね、ということです。
ところで、批判というのは、少し的外れになることが多いような気がしています。とりわけ昨今、ネット社会になって、ある一面だけが切り取られて一人歩きすることが多い。その言葉だけ聞けば確かに問題発言だ。これはけしからん。そうなりがちな気がしています。
しかし、文脈もあるし、その場の雰囲気もある。発言者の立場によっても違うはず。政治家が言うべきでないことでも、芸人がおちゃらけて言っただけなら、「バカなやつ」で終わるかもしれない。
批判ということが少し安易になっているのが、私は残念に思っています。批判されて当然のことなら完膚なきまでに叩きのめすべきですが、人間社会におけることですから、必ずしも二者択一ではなく折衷案もある中では建設的であるべきで、罵倒するだけなら批判ではありません。
簡単にブログを作成して意見を述べられるいい時代です。まさしく究極の民主主義ですが、一方では言葉の危うさを感じます。マスコミでさえちゃんと検証せずに公表しているのではないかというケースも少なくなく、一般人にそれを求めることは難しいとはいえ、その発言が一体どんな効果を生ぜしめるのか、とりわけ批判が名誉毀損などに発展するものではないのか、よくよく考えて発言する必要があるのだろうと、そこは自主規制ができていないと、民主主義はとんでもない方向にも進みかねない諸刃の剣であると、極めて慎重な判断が必要です。
批判ということで言えば、法然上人は他派の信者と言い争いするなとおっしゃいました。社会全般に関係することなら、議論が必要かもしれませんが、信仰はその人その人で違ってかまわない。確かに社会に害をなす間違った信仰があるのは否定しませんが、かといって個別に考えれば、キリスト教がいいと思う人も、仏教がいいと思う人も、神道がいいと思う人も、いていいではありませんか。「お前の信ずる宗教は間違っている」なんて、口が裂けても言えない。あくまで自分の信じる道を信じる。他社の信じる道は信じる道として尊重する。そういう姿勢が大事だと思っております。
23/12/23
23/11/04
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平成31年が始まって、もう1月が終わろうとしています。平成ということだけで言えば、あと90日ほどしかありません。なんとまあ、時の流れの速いこと。
少し話は変わりますが、何かするときに批判はつきものですね。賛否両論もありますが、内情を理解しない(あるいは誤解している)批判も少なくありません。
以前からよく耳にするのは、大学がえらく綺麗になっている。あるいは、宣伝広告費にお金を費やしている。教員たちが研究費が足りないと嘆いているけれど、お金の使うところが違うのではないか。研究費が足りないと言っていても、同情できない、と。
私は大学にも所属しておりますので、ある意味聞き捨てならないわけですが、かと言って、的外れとも思いません。確かに、宣伝にお金をかけるくらいなら、より中身を充実して、それで人を惹きつけよ、というのは、寺でも言われることです。「寺院経営」にかまけるよりは、本当の仏教を追究し、それを実践していれば、皆ついてくる。以前、私が若かりし頃に、先輩僧侶と議論した中でも、私が「仏教を実践する中で、経済的な余裕は必要ではないか」という主張に対して、その先輩僧侶は「乞食坊主でもいいじゃないか、なぜ寺院を維持するために金儲けに走る意味があるのか」という反論をされました。
金儲けして仏法の大事なことを忘れるなら本末転倒ですが、「ボロは着てても心の錦」とうそぶいてみても、それでは人に通じない。どういった形であっても、あまり寺にアクセスしたことのない人に対して、宣伝であったり、見た目を目立つようにしたりということは必要ではないでしょうか。一概に、宣伝やハードの整備にお金をかけることが悪いとは思いません。要はバランスです。羊頭狗肉にならないように、見た目ばかりに気を使うことなく、でも、関心を持ってもらうように一定程度、見た目にも気を使う。
考え方の違いにすぎませんが、私は、見た目も大事だと思っています。「人は見た目が99.9%」ととまでは思いませんし、人間社会の常識にくさびを打つのが仏教界だとすれば、見た目を絶対視はしません。でもね、ということです。
ところで、批判というのは、少し的外れになることが多いような気がしています。とりわけ昨今、ネット社会になって、ある一面だけが切り取られて一人歩きすることが多い。その言葉だけ聞けば確かに問題発言だ。これはけしからん。そうなりがちな気がしています。
しかし、文脈もあるし、その場の雰囲気もある。発言者の立場によっても違うはず。政治家が言うべきでないことでも、芸人がおちゃらけて言っただけなら、「バカなやつ」で終わるかもしれない。
批判ということが少し安易になっているのが、私は残念に思っています。批判されて当然のことなら完膚なきまでに叩きのめすべきですが、人間社会におけることですから、必ずしも二者択一ではなく折衷案もある中では建設的であるべきで、罵倒するだけなら批判ではありません。
簡単にブログを作成して意見を述べられるいい時代です。まさしく究極の民主主義ですが、一方では言葉の危うさを感じます。マスコミでさえちゃんと検証せずに公表しているのではないかというケースも少なくなく、一般人にそれを求めることは難しいとはいえ、その発言が一体どんな効果を生ぜしめるのか、とりわけ批判が名誉毀損などに発展するものではないのか、よくよく考えて発言する必要があるのだろうと、そこは自主規制ができていないと、民主主義はとんでもない方向にも進みかねない諸刃の剣であると、極めて慎重な判断が必要です。
批判ということで言えば、法然上人は他派の信者と言い争いするなとおっしゃいました。社会全般に関係することなら、議論が必要かもしれませんが、信仰はその人その人で違ってかまわない。確かに社会に害をなす間違った信仰があるのは否定しませんが、かといって個別に考えれば、キリスト教がいいと思う人も、仏教がいいと思う人も、神道がいいと思う人も、いていいではありませんか。「お前の信ずる宗教は間違っている」なんて、口が裂けても言えない。あくまで自分の信じる道を信じる。他社の信じる道は信じる道として尊重する。そういう姿勢が大事だと思っております。