老いるということ

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老いるということ

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2019/07/15 老いるということ

本年6月7日読売新聞夕刊「よみうり寸評」より。

「急に体のどこかが痛くなる。指や足がいうことをきかなくなる…。〈年をとって生きるとは、どこに伏兵がいるかわからない野原を、さぐり足で歩いているようなものだ〉。文芸評論家の中村光夫さんが(つづ)っている(「老」の微笑)◆免許証の返納も考えていたというから、伏兵を意識してはいたのだろう。福岡市で車6台が絡む事故を起こし、死亡した81歳の男性である◆運転ミスによるパニックなど何らかの理由で急に正常な運転ができなくなったらしい。原因が何だったにせよ、伏兵の襲来が本人の予想した以上に急だったとはいえるだろう◆伏兵への対処法が二つある。そもそも戦地に赴かないこと、あるいは防備を強めることである。高齢ドライバーの事故というテーマに即せば、前者には免許返納、後者には自動ブレーキや急加速の防止装置の搭載が該当するのではないか◆半世紀前に実感を込めて先の随筆を書いたとき、中村さんは60歳の手前だった。伏兵に備えるべき人生の時間は今、はるかに長くなっている。」

 

少し落ち着いたようですが、高齢者の自動車事故がここしばらく話題でした。もっとも、必ずしも高齢者の事故だけが増えているわけではなく(高齢者が増えているのですから、事故件数、事故割合は増えるのはある意味当然とも言えます)、交通事故死自体は減少してもおりますが、さりとて、高齢者の運転能力が衰えるのは、ある意味当然でしょう。

 

老いというのは、今に始まったことではなく、苦しいことです。お釈迦様も4つの根本的な苦の中に老いを挙げておられます。「どこに伏兵がいるかわからない野原」を探り探り歩いているようなもの。まさしくそんな気がします。

 

それでもなお、歩いて行かざるを得ない。天寿を全うするまでは。例えば、お釈迦様は悟りを開いた偉い方ですが、悟りを開いたから後は寝て暮らしたかというと、そうでもないでしょう。一説には、自分は悟りを開いたからもうこれで十分だ、あとはゆったりと余生を過ごそうと思われたこともあったが、梵天に「お前の悟りの境地を多くの者に伝えてくれ」と懇願されて、布教の旅を始められたとも言います。死のその間際まで、御年80にして長旅を続け、信者の施しの料理に当たって(食中毒で)亡くなられたとのことです。

 

私も僧侶などをしておりますと、「多忙であったり、イライラして、血圧も上がって…」みたいな話をしましたところ、「そういうことに対処して、心穏やかに暮らしているのがお坊さんではないのか」と言われたことがあります。

 

とんでもない。苦しみの中のたうちまわっている哀れな凡夫。それが私です。僧侶ではあるけれども、いつまで経っても悟りなどはもちろんのこと、仏教そのものの理解さえ、完璧であろうはずもなく、これからもまだまだ修行の身です。

 

完璧を装った方が一般受けはするのでしょう。政治の世界でも、堂々と、断言口調で話した方が人気を博すようです。しかし、断言できることなんて、この世にどれほどあるでしょうか。ああでもない、こうでもないと考え続けるしかないのではないでしょうか。自分の今後のことでさえ、こうした方がいいのかああした方がいいのか、考えがまとまりません。そうこうしているうちに、時間だけはどんどん進んでいきます。

 

完璧なんてありえない。歳をとればとるほど、そのことを実感せざるをえません。後悔先に立たずで、若かりし頃にああやっておけばよかったなあと思うことも少なくない。

 

老いるということは4大苦の一つですが、生きとし生けるものにとっては仕方のないこと。とすれば、いい意味での諦念も必要です。諦めるというと愚かだと思われるかもしれませんが、人間、どれだけ頑張っても克服できないことだらけ。克服できることは頑張ればいいが、克服できないことは受け入れざるを得ない。

 

老いることは自分の未熟さと向き合うこと。老いることはこの世の無常を実感すること。でも、老いることは熟すこと。老いることは、次世代にバトンタッチすること。

 

佛華を活けました。カーネーションをワンポイントに、黄色系の花を中心にしてみました。生き生きとした花に癒されつつ、これらもまた枯れます。まさに、諸行無常。

 

刻一刻と老いていくのが私たち。今を大切に、生きましょう。完璧でないことを自覚して、謙虚に、丁寧に、生きましょう。

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