親殺し、子殺し

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親殺し、子殺し

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2019/06/10 親殺し、子殺し

ネットニュースを見ておりますと、以下のような文章を目にしました。

 

子供を殺した元事務次官に「正義」は全くない

 

親、親方、親分といった親が、子、子分に対する生殺与奪の権利を有しているという封建的な考え方が、現在でも日本人には比較的残っているのではないか、という内容の文章です。実際、この事件の後、「自分が親だとしても殺してしまうかもしれない」「元事務次官を責められない」という擁護の意見が少なくありませんでした。気持ちはわかりますが、でも、ということで、上記文章の結論には一定の理解を示しつつも、少し気になることがありました。それは、以下の部分です。

 

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キリスト教の影響を受けた浄土教の一部に、阿弥陀如来を「親」と位置づける考えがありますが、この「親さま」の考え方が江戸時代、主として浄土真宗の寺壇制度とともに日本全国に普及し、親は子の生殺与奪の権をすべて持つという考えが、当たり前のものとして普及してしまいました。

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一部の浄土教というのが何を指しているのかわかりませんが、文脈からは、浄土真宗(の一派?)を指しているものと思われます。しかしながら、「キリスト教の影響を受けた」というのも、「阿弥陀如来を「親」と位置づける」のも、浄土真宗の主たる考え方とは異なります。一説にこういった考え方がありうるのはわかりますが、キリスト教と浄土真宗を並列的には考えられません。まずもって、阿弥陀様は人智を超えた存在であり(上記文章にも書かれているように)創造主ではなく、イエスキリストのような存在でもありません。

 

ましてや、浄土真宗の教えが親に生殺与奪の権を与えるものではありません。もちろん、曲解すれば可能でしょう。浄土真宗を、殺人を肯定する宗派だと誤解している方もおられますが、決して殺人を肯定するものではなく、殺す気はなくても、自動車を運転していれば人を撥(は)ねる可能性があり、ましてや、人間に限らず、生きとし生けるものの命をエネルギーとしていただいているのが私たち人間です。殺生しないでは生きていけない。それが私たちです。それを、殺人を肯定するものと考えるのは誤解です。仏教用語で言えば「異安心(いあんじん)」です。

 

浄土真宗は、どこまでいっても大切な命を大事にし、またいただいた命に感謝して生きようという、報恩感謝、それに尽きます。朝(あした)に礼拝、夕(ゆうべ)に感謝。それに尽きるのです。

 

浄土真宗の教えから少し離れてしまうかもしれませんが、私は、この世においては、この世の法に従って、処罰を受けるべきであると考えます。殺人は、程度の差こそあれ、犯罪に違いありません。阿弥陀様は死後の世界においては苦のない世界=お浄土にお導きくださるだろうけれど、この世では、ただ微笑んでおられるだけです。そういう言い方をすると、キリスト教の神様と同じではないかと誤解されるのかもしれませんが(遠藤周作の『沈黙』は、不朽の名作だと思います)、阿弥陀様はこの世で人を罰したりも現世利益的な何かを与えたりもしません。何もないなら、報恩感謝しても意味ないではないかと思われるかもしれません。そのような考え方自体が、現代的なギブアンドテイク的な、実利主義的な考え方に他ならず、報恩感謝に基づいて、妙好人と言われるような生活を送ることが、世間的にも評価を受けるわけで、評価を得るからそうするわけではなくても(むしろ評価を得たいからといってそんな生活を送っていると、自力の意識が前に出過ぎですが)、十分な現世利益ではないでしょうか。

 

再度、上記リンクした文章より引用いたします。

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今回のような「責任の取り方」が通ってしまうなら、法治国家としての日本は成立不可能と言わねばなりません。

亡くなられた刑法の團藤重光教授が、裁判員制度の導入に際して一番危惧しておられたのは、法の素人が何人で多数決投票しても、最初から法治とは無縁な人民裁判にしかならない、という点でした。

医学の素人が家族会議で多数決投票の結果、ガン治療のために水子地蔵建立、といった話と変わらない状態に容易に陥ってしまう。

厳密に法と論理に従う判断の倫理をトレーニング(心証形成能力の涵養)するには、大変なエネルギーが必要だと強調しておられたことは、しばらく前のコラムでも触れました。

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私は法学者でもあり、法治国家であることは、非常に重要であると考えています。封建社会も、「親」がいい人であればきっと問題はありません。すなわち人治国家であったとしても、王様が素晴らしい人格者であれば問題は生じない。ところが、何十人かに一人でも悪政を敷く独裁者が出れば、人民は暗黒の時代を迎えます。だからこそ法制度は誰が運用しても恣意的な独裁的なものにならないよう、極めて慎重に制度設計されるのが理想です。ただ、最近残念に思っているのは、「法の素人」「行政の素人」による法制度、行政制度への介入が非常に増えており、しかも専門家をバカにして、制度の問題点をいくら指摘しても「お前らのやってることは机上の空論だ」となる。現在の裁判員制度は団藤先生がおっしゃるほどひどくはなくても(問題点はありますが)、人民裁判的な手法がとりわけ選挙という、様々なことの素人による投票権において顕著になりつつあります。民主的な選挙から、ナチス独裁政権が誕生したことは、人類が存在する限り、語り継がれていくべきことです。

 

私は、生殺与奪の権利は、誰にもないと思っています。たとえ本人であっても。いわゆる自死も、本来的には認められない。人間以外の生物で自死を選ぶ種族はほぼいない(あるかもしれませんが)。もっとも、仏教的には自死も否定はしません(この話はまた別途)。しないけれども、自然界で生きるべき生物は、自然の摂理の中で生きるべきで、寿命を全うするのが、私たちに課せられた一番の使命だと、私は考えています(繰り返しになりますが、この世に疲れ果てて自死に至る場合もありますが、仏教的にはこれを否定はしません)。

 

今回の元事務次官の殺人について、どの程度の刑罰が科されるかは、識者によって差があり、はっきりとはわかりません。ただ言えるのは、人を殺める権利は、誰にもないということです。

 

少し蛇足になりますが、最近話題となっている中絶(出生前血液診断による)も、自然の摂理からいえば否定せざるを得ませんが、どうしようもない状況にあっては、否定することはできないという、私には難しい判断です。

 

あるがままにというのは、人間らしく生きよということですが、何をあるがままになのかは、自分で考えなければいけない。お釈迦様は、仏法と自らを拠り所とせよ(法灯明、自灯明)とおっしゃっておられます。

 

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