ダライ・ラマの語る釈尊

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ダライ・ラマの語る釈尊

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2020/01/06 ダライ・ラマの語る釈尊

ノーベル平和賞も受賞したダライ・ラマですが、批判も強いところです。目的のために手段を選ばないというと言い過ぎですが、ここでは、やはりすごい方だという側面を。

 

こんな記事がありました。

的を射たダライ・ラマの『幸福論』に驚く声が続出 「そんなハッキリいうとは」「深い…」

「ドラッグやアルコールやお金から幸せは得られません。究極の幸せや喜びは、思考によってのみ得られるのです。そして、宗教への信仰心から得られるものでもないのです。

信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。

その点において、釈尊は非常に賢明でした。「私は人々の苦しみを取り除くことはできません。私は人々の否定的な感情を洗い流すこともできません。私は私自身の心の平穏を人々に与えることもできません」。

釈尊は、ご自身の経験を元にした心の平穏を得る方法を、ただお示しになったのです。素晴らしいですね。

1人の人間としての釈尊であり、神様ではありません。」

 

無宗教という言葉がありますが、ダライ・ラマは皆が無宗教で良いとおっしゃったわけではないと思います。ただ、宗教とは、仏教とは、生きるために様々襲いかかる苦を取り除く考え方であって、それを宗教とか仏教とかいうのはもちろんいいとしても、一人の人間としては、宗教、仏教をどう読み、どう理解し、どのように苦を取り除くことができるのか、考えるしかない。その考えを示されたブッダ(釈尊)は一人の人間としてそうおっしゃった。

 

私は大学の教員ですので、学生に対していつも思います。主体的に自分を生きているか。主体的に大学に来ているか。主体的に学んでいるか、と。親に言われたから進学した、先生に言われたから進学した。全然主体的ではありませんね。全ての大学生がそうだと言っているわけではありません。18歳のほんの数%が進学していた時代と、50%が進学する時代では自ずと異なるのは自明です。50%が進学する時代でも、大学に主体的に進学する生徒はもちろんいます。

 

とにかく、考えなければいけない。「アルコールで幸せは得られない」というのは、お酒大好きな私には耳が痛いですが、しかし、アルコールで幸せは得られないことを私は知っています。アルコールがどう体に良くも悪くも影響するのか、わかって飲まなければ、飲んではいけないと思います。飲めない人が飲むのはもちろんだめです。「酒は飲んでも飲まれるな」は真実です。

 

真宗は、聞法を大事にします。聞法運動という言葉をお聴きになったことはあるでしょうか。どの真宗教団でも、聞法は最も重要であり、それを中心に位置付ける活動を行なっています。

 

では、聞法とは何か。簡単に言ってしまえば仏の教えを語る法話をいただく(聞く)ということです。ダライ・ラマは信仰ではなく考えなければならないとおっしゃっていますが、「ありがたいありがたい」と法話を聞いて終わりではなく、自分と向き合って、その法話を血肉となすために考えることが大事だとおっしゃっているのだと思います。

 

もちろん間違った理解(異安心)はだめですが、自ら主体的に考える。正しい教えを伝えられて(法話をお取次ということがありますが、布教使の主観を語るのではなく、真の教えをそのまま聴衆に取り次ぐ、というニュアンスです)、間違って理解するのは困りものですけれど、実際、そういうことはないことではないです。余談ですが、大学で同じように学生たちは私の話を聞いているはずですが、試験をしてみると80点も0点もあります(0点は、もしかすると全く出席していない可能性はありますが)。

 

それでもなお、自分で考えるしかないのです。受験を他人がしたら、それは大問題です。「如是我聞(私はこのようにお聞きした)」で主要なお経は始まりますが、「釈尊はこうおっしゃった」で始まっていないことには、それ相応の意味があるのです。

 

蛇足ですが、布教使は自分の主観を語っていけないわけではありませんが、仏の教え、真の教えを曲げて伝えることはできないのは当然のことです。また、ダライ・ラマの言葉の中に「科学的に」考えなければならないという表現がありますが、因果応報、原因があって結果があるという考え方が科学の基本であるとすれば、仏教もまさしくそれを大元にしています。神秘主義になってしまえば、それはそれで仏教とかけ離れてしまいます。
もっとも、見えないこと、再現できないことは非科学的だというのが現代科学の基本とすれば、目に見えなくても真実はあるし、再現できなくても真実はありうるとは、思います。

 

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