春法要厳修・法話

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2020/03/16 春法要厳修・法話

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去る3月14日、新型コロナウイルス蔓延により、開催が危ぶまれましたが、なんとかお勤めすることができました。例年に比べますと少ないご参詣でしたが(事前に、このような事態ですのでご参詣を無理なさらないようにとの葉書をご門徒さんには送らせていただきました)、それでも数名はお越しいただき、身内の門徒も含めますと2桁の参詣があり、有難いご縁でした。

 

正信偈をお勤めしたのち、法話。

 

春法要ではここ数年私がお話しさせていただいてます。法話の内容を、かなりの長文ですが、少し省略しながら、ここに掲載します。なお、数字などニュース内容は3月14日時点のものを参考にしています。

 

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新型コロナウイルスの蔓延で、お出にくいところ、ご参詣いただきありがとうございます。
本日は、毎年恒例でございますが、大阪大空襲戦没者追悼会を主といたしまして、永代経、春の彼岸会、それに東日本大震災の犠牲者追悼も併せてお勤めさせていただいております。

 

<しばらくコロナウイルスの話を前置きとして>
そんな中ですが、今回はまた大変なことに、新しいウイルスが蔓延したということで、困ったものですね。戦争は明らかな人災、地震は明らかな天災ですが、ウイルスの蔓延は、天災でもあり人災でもありますね。どうやったら感染を抑え込めるか、うまくしないと一気に広がる。日本政府は対策が後手後手に回っていて批判されていますけれども、他国と比べて格段に死者が多いわけではなく、結構うまくやってるんじゃないかと思わなくもありません。イタリアは、中国と深いつながりのある人物がいたのか、一気に感染が拡大しましたね。死者も1000人越え。日本は10数人ですから、人口からしても、驚きです。
日本は感染の有無の検査が少ないからだと言われてますが、重症化すれば検査せざるを得ないわけで、10数人の死者というのは、検査の有無にかかわらず正しい値だと考えられます。検査も100%完全ではないらしくて、陰性だと言われていても実は陽性だったとか、その反対もあるみたいですから、検査にこだわりすぎる必要はないのかなと。検査して陽性だったとして、特効薬があるなら、それを処方して終わりにすることができますが、特効薬がない以上、陽性と出た人を全て隔離できる施設もないでしょう。あくまで重症患者を隔離して治療することで更なる感染を防ぐしかありません。そうでないと、よく言われているのが、軽症者で病院がパンクしてしまう、そうすると医療が崩壊してしまう、と。
とにかく、うがい手洗い、そしてマスク。感染予防のためにはまずはそれ。この中に大阪で一番感染が確認されているライブハウスに行かれた方はおられないとは思いますが、そういったところで感染者と濃厚接触された方は、自分は感染しているんではなかろうかという気持ちで行動してもらう(一番は自宅に引きこもる)のが感染予防に大事なようです。

 

<新型コロナウイルスと経済不況と>
で、大空襲や戦争に関する話は今回はお休みにさせていただいて、別の話をしたいと思ってます。とは言いながら、関係することをもう少しお話ししますと、戦争とか大震災とか、あるいは今回の新型コロナウイルスとか、この世は、安穏と生きることを許してくれませんな。今でも内戦など戦争が続いている国は世界中にありますが、とりわけ日本は第二次世界大戦、まあ朝鮮戦争からでもすでに70年ほど大きな戦争に巻き込まれていません。

 

そうかと思えば、阪神淡路大震災に東日本大震災、熊本地震など頻繁に起こっていて、南海トラフももう直ぐだもう直ぐだと言われています。第二次世界大戦前には、世界的な不況があり、関東大震災もあって、昭和恐慌が来ました。その後軍部の暴走で第二次世界大戦勃発。今回も、すでに令和恐慌が始まるという意見もありますが、確かに景気は悪くなるのは間違いありません。消費税増税で7.1%のGDPの低下、すなわちマイナス成長になった日本が、新型コロナでさらに不景気になるでしょう。

梅田も難波も、予約せんと入られへんかった店とか並ばんと入られへんかった店が、スッと入れます。スッと入れるのは個人的にはありがたいものの、背筋が凍る思いでした。大丈夫か、日本。
多くの人がね、休校措置とかイベント自粛に賛成してますね。私も命を賭してまで経済活動をせえというつもりはないんですが、実はバブルがはじけて不景気になってからつい数年前までは、自殺者-一般には自殺と言いますが、仏教では自死ということも多いですので、自死と言うようにします-の数が急増していたんです。1990年代までは毎年の自死が2万人台で推移していたところ、2000年代に入って3万人台に増えています。ここ数年は急減していてその理由はよくわからないものの、景気が安定していた面はあるのかもしれません。その分格差が広がったとも言われていて実際にはどうなのか、経済的に恵まれない人たちが諦めの境地になったのかもしれません。

 

<新型コロナで亡くなる命も、不景気で亡くなる命も、同じ大切な命>
何が言いたいのかと言うと、消費税増税で景気を悪化させ、今度は新型コロナでさらに悪化し、オリンピック中止なんかになると、日本経済は立ち直れないくらいの衝撃かもしれないと言われています。余談ですがオリンピック中止は、日本だけでなくIOCもおいそれとは決定できないようです。すでに何千億いや何兆というお金を費やしていて、さあ中止となると、支出だけして収入なしですから、IOCも首が回らなくなる恐れもあるからです。とはいえ、遅くとも5月くらいまでにコロナ騒動が終息していないと、中止も現実味を帯びてきます。ギリシャ国内での聖火リレーは中止になったらしいですし。不景気が続くと、コロナの感染予防のために自粛の流れで不景気になり、自死者が増える恐れがある。そういう懸念があります。

 

<人間社会は複雑系>
人間社会は複雑系と言われることがあります。今って何事も簡単に分かりやすいようにと英語で言えばワンイシューにしようと政治家も考えます。例えば都構想ですが、それさえ実現できれば将来夢の展望があるかのように推進派は言います。今辛抱すれば、将来、次の世代により良い大阪にできる、と。でもこれは単純すぎて無茶苦茶です。ここで都構想に深入りしすぎると、仏法のお話なのか政治の講義なのかわからなくなりますのでやめときますけれどね、いくら単純化したところで、何か大きなことをやるときに、どんな副作用が起こるかわからない。その副作用を見極めないといけないのに、ただ一点だけこうしたらこうなるというのは、あまりにも無責任なんです。
感染予防には最大限協力しましょう。自分の命も他人の命も大切です。でも、あまりにもいろんなことを自粛しすぎて、経済活動が落ち込むようなことにならないよう、普段の生活もしたほうがいいんじゃないかなと思います。コロナも長期化するという意見が強くなってきました。基本政府の自粛要請は明日15日までとのことですが、1、2週間の自粛要請延長がされました。そうなると、小さなお店とか、持ち堪えられなくなって倒産というのも増えそうで、やはり怖いです。もっとも、府知事は経済が死んでしまわないよう、自粛要請も緩和するみたいなことを言ってますけどね、政治が後手後手に回っているのは事実です。アメリカが思い切った景気対策をするらしいですが、日本も早くしないと取り返しのつかないことになります。

 

<デマの怖さ>
さて、A4用紙3枚くらい、新型コロナの話主体でお話ししてきました。考えさせられるのは、戦争にせよ、大震災にせよ、今回のようなケースにせよ、人間のいろんな面、特に嫌らしい面が露呈しますね。今時オイルショックでもあるまいし、トイレットペーパー、ティッシュペーパーに果てはキッチンペーパーまでスーパーの売り場から姿を消しました。今週に入って少し落ち着きましたけれど、まだ完全とはいえないですね。デマを流す人もデマに踊らされる人も、もうちょっと考えてみようねと思いますな。さらにはマスクその他の転売。火事場泥棒と言うべきか、人の弱みにつけ込んで儲けることを恥と思わない人もおられるんだなあと、悲しくなりました。どこぞの県議会議員までやってたらしい。
親鸞聖人のご時世はいかがだったんでしょうね。戦国戦乱の時代ですが、当然今のような通信機器はなく、あるとすれば手紙だけでしょう。関東での布教活動ののち、京都に戻られた親鸞聖人が、関東での教えの乱れに息子の善鸞を使者として向かわせたら、それがかえって混乱をひどくしてしまって、親鸞聖人は息子を義絶したと言うお話は、皆さんよくご存じでしょう。浄土の教えは当時はエキセントリックで、その分難しくもあったのでしょう。なかなか理解が進まない。善鸞は、自分だけが親鸞聖人の本意を知っているとして、浄土教の本質を曲げて、時の鎌倉幕府に阿る形で混乱を収めようとしたわけです。でも、そんなことはおかしい。ダメなものはダメ、おかしいものはおかしい。

 

<歎異抄の作者のことなど>

皆さん、歎異抄はご存じだと思いますが、ちょっとクイズです。歎異抄の著者は誰でしょうか。①唯円房、②如信上人(善鸞の子)、③覚如上人(如信上人の子)
簡単やんかと思われたかもしれませんが、今は唯円房が通説ですけどね、如信上人説も結構有力に唱えられていました。明治の名僧、暁烏敏という方は如信上人説に立っておられたようです。考えてみれば、唯円房は親鸞聖人の直弟子とはいえかなり歳が離れています。たまには直接話を伺う機会もあったかもしれませんが、そう考えると、孫の如信上人の方が「ちょっとおじいちゃんに聞いてみよう」と気楽に話しかけることができたかもしれない。一説には、覚如上人の依頼で唯円房が書いたとも言われてます。
如信上人と覚如上人が歎異抄の筆者ではない根拠、唯円が筆者であるとされている根拠はあるのですが、そこはすっ飛ばして通説通り唯円房が書いたとして考えてみますと、次に「先師の口伝の真信に異なることを嘆き」と言う表現の「先師」とは誰かが問題になります。これも通説は、先師=親鸞聖人だとします。唯円房が口伝えに親鸞聖人から伝えられた真信と、巷で唱えられる見解が異なっている、と言うことになりますが、佛光寺派のある僧侶は、ここで言う先師は如信上人だとされます。どういうことかと言うと、唯円房が直接親鸞聖人から聞いたことと、如信上人が親鸞聖人から口伝えに聞いたことと、その両方を見比べてやはりこれが正しいと言うことを前提に、他者の意見が親鸞聖人の意見と異なっている、だから嘆かわしいと言ってるんだと言うことです。
如信上人は唯円より若いので、(先師とする)この見解が正しいかどうかは分かりませんが、私はある情報を得たときに、自分勝手に理解していないかどうか、他の情報と見比べて考える癖が必要ではないかと思うわけです。如信上人は親鸞聖人のもとで勉強され直接口伝を受けたのだからまず信頼できる情報であることが前提ですけれど。如信上人が善鸞と同じ穴のムジナであったら困りますね。正しい情報を正しい出所から得るのが大事。

 

<異安心>

異安心と言う言葉がありますが、自分勝手に教えを理解するのは、早い話誤解です。誤解しておいて、これが正しいなんて思うのはもってのほか。だから、親鸞聖人から自分が聞いた教えが正しいかどうか、如信上人が親鸞聖人から聞いた教えと比べて、「ちゃんと理解してるな」と思ってから、それを文章にしたとすれば、素晴らしいじゃないですか。

 

<如是我聞>
もう一つ、ちょっと違う視点ですが、如是我聞と言う言葉、仏説阿弥陀経にも書かれてますね。私はお釈迦様の言葉をこのように聞いた。お釈迦様はこのようにおっしゃったではなく、私はそのように聞いたで始まる。お釈迦様がこのようにおっしゃったと、私が言うのはおこがましい。私はこのように味合わせていただいたが、皆さんどうか。と言う問いかけでもあると思います。もちろん、正しいからこそ、今まで残っているんでしょう。偽のお経だったら、多分残りません。
蛇足ですが、般若心経はお釈迦様のいたインドで書かれたお経ではないと考えられています。インドで書かれたお経のエッセンスを、中国の誰かが書いたもので、ある意味偽のお経ですが、これはその精神が本来のお経に沿ったものなので、今まで残っているんだろうと思います。

 

<日本人も捨てたもんじゃない>
先ほどトイレットペーパーとかがなくなった、という話をしましたが、皆さんもびっくりされたんじゃないですか。私も、近くのコーヨーだとかライフとかダイキに行ってみたんですけど、1週間ほどどこにもなくて。キッチンペーパーはなくてもなんとかなるとは言え、不便でした。それにトイレットペーパーはなくなったらどうしようとやきもきしていたら、なんとか店頭に並ぶようになってほっとしました。
あれね、自分だけがよければそれで良い、という考えの日本人が増えたというふうに感じた方も多いと思います。でもね、ある経済学の研究者が計算したところ、あくまで推測に過ぎませんが買い占めに走った日本人は8万世帯20万人程度だろうということでした。1億2千万人のうち、ほんの20万人です。ネタかもしれませんが、あるネットニュースでは1人で16ロール入りを18パック買った人がいたと言います。ほんの20万人でも、買い占めに走られると残りの大多数は買えない羽目になるわけですね。
でも、その経済学の研究者の意見として、諸外国なら買い占めによって物がなくなると暴動が起こることも少なくないのに、日本人は生真面目で忍耐強い人が多いということがよくわかる、と。なるほどなあと思いました。決して、強欲な人が増えたわけではなくて、一部の人がそんなことをしていただけでした。大部分の日本人は忍耐強いというか冷静な対応をしていた。まだまだ日本人は捨てたもんじゃないわけです。

 

<歎異抄に魅せられて>
さて、歎異抄は短いですし、おおよその内容をご存知の方も多いかと思います。どの文章も味わい深いですよね。特に、何度読んでも面白いし、年齢を重ねるごとに味わいも変わります。若い頃に読むより、今読んだ方が感動もある。何なんでしょうね。歎異抄に魅せられた著名人も多いですよね。五木寛之という作家も、まだご存命のはずですから晩年というのがいいのかどうか分かりませんが、年齢を重ねられてから親鸞聖人、歎異抄に関心を持って、わざわざ1年間でしたか、作家活動を休止して龍谷大学で学ばれました。余談ですけれど、その結果、お西の真宗学を学ばれたので、佛光寺派を異端だと作品の中で仰ってね、佛光寺派の碩学がそれに対して公開質問状を出して、五木さんもそれに返事されて、もっと勉強しますということで、文章を改められたこともありました。どこぞの新興宗教なら実力行使に及びそうだが、佛光寺派は丁寧に質問状で対応してくれた有難いともおっしゃってました。まあ、お西というか本願寺が佛光寺派を異端だと言ったのは、端的に言えば元々盛んだった佛光寺派を貶めることで本願寺の優位性を示そうとした一部のエキセントリックな門主がそう喧伝しただけであって、佛光寺派の中興の祖である了源上人と、先ほど出てきた覚如上人の子である存覚上人とは仲が良かったというか、存覚上人は了源上人に教えを請うていたこともあったようです。
話したいことがあるとすぐに脱線してしまいますが、脱線してそのままどこかへ行ってしまわんように台本はありますので、ちゃんと戻りますね。

 

<歎異抄第1条>
歎異抄。全てに味わい深いけれども、第1条についてお話しして終わりにしたいと思います。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

 

<この世は苦のない世界か?自分は突如この世に存在するのか?>

この世は、皆さん、極楽ですか。地獄ですか。私は、極楽でもあり、地獄でもあるなあという感じです。昨今、仏教が廃れてきている一番の理由は、まあ、僧侶のレベルが下がっているのもあるのかもしれません。でも、そんなことは些細なことで、むしろ苦しいことは何もない世界、あるいは苦しいことはあるけれど楽しいことの方が勝る世界と思う人が多いのかなと。もっと言えば、今、ここに自分がいることが、当たり前のことで、これまでの長い歴史、命のバトンタッチの中でたまたまここに存在するという意識がない人が多いんだろうとも思うわけです。

 

そんなことないですよね。どこまで行っても、私がここにいるのは、奇跡です。たまたま多くの祖先があって、私がここにいる。吉本新喜劇の定番ネタで、「君たちがいて、僕がいる」というのがありますが、多くの祖先があって初めて、私がいる。奇跡の賜物ですよね。
それから、本当に、いろんな苦がありませんか。苦がない人は幸せですよ。
私はあまり人を嫌うということがありませんが、私を嫌う人はいます。こちらから挨拶しても無視するほど嫌われたこともあります。そういう経験を通して、怨憎会苦って、あるんだなと。悟りを開いているであろうお釈迦様でも、怨憎会苦を苦の一つに数えられた。この世を幸せいっぱいと捉えても、どこかに苦はあるし、むしろ苦に絡めとられてしまっているのが、現代ではないか。
この世を楽と思えるなら、それに越したことはないんですよ。でも、苦もある。日本人は平和ボケしているとよく言われますが、それは悪いことではないけれど、どうなんですかね。

 

<運命論?>

いつも思うことがあります。運命論。皆さん、運命論って、信じますか?全てが運命に従って進んでいっているっていう。私は、これは信じません。でもね、仏教で業、宿業という、自分ではどうしようもない運命はあることは、否定のしようがありません。私は日本人です。皆さんも、日本で生まれた。また、男に生まれた女に生まれた。昭和の時代に生まれた、平成に生まれた、令和に生まれた。こんなことは、変えようがない。所与の事実です。所与の条件。それを嫌だと思うかいいと思うかは、その人次第。
運命論に従えば、自分の運命は変えることができません。だけど、仏教は運命を変えることはできると考えつつ、変えようがないことは、受け入れる。私で言えば日本人であること、男であることは、もう変えようがない。それを前提として、生きていくしかないんです。
だけど、どうも今の世の中、自分に与えられた所与の条件すら変えられると考えているんじゃないか。若い人を見ていると、この世に生まれてきたときに両親あってこそなんですが、両親とは関係なく、自分一人でこの世に生まれ落ちたと驕り高ぶっていないかとも思います。若い人が親を馬鹿にしているとは思いません、むしろ尊敬しているとは思うのですが、何か違和感は感じます。褒める育て方が一般化している中で、苦悩は完全に抜け落ちているのではないか。

 

<苦しいけれど、生きていくしかない>
でも、苦悩がない人って、いるわけないですよね。この世は苦しいですよ。苦しいけれど、生きていく。生きていくしかないんです。

 

生きていくしかない中で、生きる縁(よすが)とするのは、阿弥陀様のみ。それが、浄土教であり、浄土真宗です。人間を頼りにするのは、奴隷と同じ。宇宙の真理である阿弥陀如来を心の縁(よすが)とするしか、私たちにできることはないのではないか。この世はこの世。苦も楽もあるのがこの世。それを前提としながら、宇宙の真理そのものである阿弥陀様に感謝しつつ、苦も楽もあるこの世を生きていく。

 

<阿弥陀如来、釈迦如来>

どうせいつかは死ぬ身。死んで後のことは阿弥陀様にお任せしましょう。死後どうなるかなんて、わからないんですから。ならば、宇宙の真理である阿弥陀如来に身を委ねましょう、この世ではただそれに従って生きればよい。ちなみに、「如来」とは辞書的な説明では「完全な人格者の意で、真理をよく理解して自分のものとし、迷界に下って衆生を救済する仏陀のこと」とされます。如というのは宇宙の真理、全てを正しく理解した存在であって、その宇宙の真理から、この世の一切衆生を救済しに、この世に現れる方、という意味です。簡単に言えば「真実から来た者」ということですね。

 

<報恩感謝>
報恩感謝。真宗の教えに戒律はないけれど、もしこうしなければならないことがあるとすれば-もちろんそれは義務ではなくて自発的にすべきことですが-、報恩感謝が念仏者に与えられた唯一の生活スタイルです。それだけです。手を合わせたらご利益があるのではない。今ここに生かされていることに感謝し、死後はお浄土に生まれ変わらせてもらえるのだから、その恩に報いる生活をする。それだけです。

では、最後に合掌して終わりにしましょう。

 

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