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2020/04/13 政治について

「政府が何やっても、文句を言う人はいますよねえ…」と、とあるコメント欄。

 

定型文と言っていいくらい、よく使われる言葉です。

 

前置きとして申しておきます。繰り返し申していることですが、私は思想信条は中道です。何ごとも極端に過ぎない方がよい。政治も、極力距離を置いてきたつもりだし、政治に批判も何もしないつもりでもありました。しかし…

 

私、政治は文句言われてナンボだと思います。国民の幸福度が限りなく100%に近い某国は、国民に均質的な思考をマイルドに持たせているだけで、日本の隣の独裁国家とあまり変わりはないという意見もあります。

 

1億人も人がいれば考え方もいろいろあって、その調整をするのが政治の役割。大変ですよ。大変なのはわかっていて、でもお国のために頑張るのが政治家。だからこそ、尊い。とはいえ、うまくいって当たり前。うまくいかなければ、叩かれる。
ただ、最近はどうも調整をめんどくさがってるかのような政策が多すぎます。有事と平時では状況も異なり、一概に同じようにはいえませんし、有事には調整に戸惑っているのか決断が遅すぎる面もありますが、その辺の違いは省略します。

 

ある政治家が言ってました。政治家は選挙に来て応援してくれる人のために働きます、と。そのときの文脈は「だから皆さん、選挙に行きましょう」でしたが、某政党は支持者のための政策実現することを明確に態度に表しています。反対派は何を言っても反対するんでしょ(だから知らない)という態度。そこには市民の分断しか生まないのですが、知ってか知らずか、それでいいと。ある政策の市民説明会に「反対の方は来なくていい」とはっきり言いました。その発言を問題視したマスコミは見かけませんでしたが。マスコミまで権力に忖度する時代。
どんな政策でも100%皆が賛成するなんてことは、1億人じゃなくても、100人であっても、そうないんじゃないでしょうか。

 

権力を握る人が何をしても、それを称賛する態度より、何をしても反対する態度の方が、どちらかというとマシ。当然ながら、是々非々が正しいと私個人は思っていますけど、一つ一つの政策から見れば必ず反対する人はいるわけで(Aさんが賛成してもBさんは反対するでしょうし、その逆の政策もあるはず)、反対派がなぜ反対しているのか考えて調整して、まとめ上げるのが政治ではないですか。「反対派はお引き取り願いたい」では、893のシマ抗争と一緒。オレの仲間になるのかならんのか、どっちや⁈という態度を政治家がとったら終わりです。かといって、万人受けすることを言ってもそれはポピュリズムであったり大衆迎合であったりして、問題です。何よりもバラマキ政治は困る。

 

正義を振りかざして他者を傷つけることと、政策を批判することは全く異なります。新型コロナウイルスにかかって死にそうになっている人に対して「お前が政府の要請も聞かずに遊び歩いてるから悪いんや!」とは、他者がいうべきことではない。はっきりとはわかりませんが、志村けんさんも自粛要請の後も飲みに歩いていたようです。お客さんが来なくて苦しんでいる馴染みの店の窮状を慮った面もあると思います。志村さんは「かわいそう」で、市井の人には「何やっとんねん!」はどう考えてもおかしい。戦争のような勇ましい話ではないから「馬鹿なやつだ」となりますが、ある意味目に見えない弾が飛び交う中を、それに気づかず最前線に出て行ってしまっただけ。馬鹿な奴でもあるが、不運でもある。責めてもはじまりません。

 

政権は頑張っている。今は政権を批判するときではないと一方で言いながら、庶民レベルでは正義を振りかざした批判、誹謗合戦が起こっている。戦争前夜を彷彿とさせます。「お国のために政治家が頑張っておられるのに、お前らは何をしとるんだ!」と。

 

いろんな人を受け入れるのが理想の社会。でも、そんなことはおそらく無理でしょう。無理だけれど、少しでも歩を進めていかなければならない。

 

一億総中流と言われ、比較的均質的であった日本という国が、大きく格差社会に流れを変えました。均質的なときはある意味同調圧力があると言われたし、また今は今で大政翼賛的に政権に、為政者に文句を言うな、と言う同調圧力があると言われています。

 

もともと農耕民族で空気を読むことに長けていたであろう日本人ですが、日本人同士がワンチームでありつつ、でも異質なものにも寛容であるべきです。政治は、十人十色の人間の考え方をできる限り調整して全員ではなくてもより多くが納得する解を見つける大変な仕事です。

 

敬意は払いますが、政治が全てクリーンで、政治家が全ていい人なんて思うのはお人好しの最たるもの。いい人もいるけれど、自分大事で国民のことなど考えていない人もいます。パフォーマンスに長けていて、その実国民のことなんか考えていない人は、ナチスドイツを例に出すまでもなく、多かれ少なかれあります。政=祭りであって、パフォーマンスな側面は否定しませんが、楽しければそれでいいのがパフォーマンスでもなく、耳に心地よい発言が決して政治の本筋でないのは事実。

 

いつの頃からか、「劇場型政治」という言い方もできました。「○○劇場」で庶民の喝采を浴びた元総理大臣は郵政民営化などを実現させましたが、その結果が現在のかんぽ生命事業の不祥事につながっています。やんややんやの喝采を浴びせるのは芸能界だけにして、政治に対しては、よほど冷静な目で見ないと、結果は恐ろしいものになります。かんぽの不祥事で煮湯を飲まされるのは政治家ではなく、郵便局を信用していた市井の人たちです。

 

政治家には頑張ってもらいたいと心から思いますが、政治家は批判されてナンボです。支持してくれる人のためだけに働き、批判する人のために働くつもりはない、と思った段階で政治家ではなく政治屋です。給料は、すべからくすべての国民が「平等に」負担しているはずの税金からもらっているのですから。

 

今回も仏教に関係のない話でしたが、最後に少しだけ。仏教徒は中庸の思想を常に持つべきです。中庸というのは、極端に走らないということ。欲を少なくして足るを知るということ。政治のような生臭い世界には足を踏み入れないこと。完全に出家するのではなく在家で粛々と人生を全うするのが、仏教の中でも真宗門徒のあり様ですが、政治とは距離を置きつつ、俗世間でできれば妙好人となって生きていく。でもね…

 

でもね、政治が暴走して庶民に大きな影響がありそうなときは、バランスを取る意味で、全く反対の立場に立つのも、悪いことではないと思います。政治の暴走に巻き込まれて泣き寝入りするのはまた、人生を全うしたことにはならない。私はそう感じています。

 

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佛華を活け替えました。せっかくの春の陽気でも、新型コロナのせいで花見する気分にもなれないところですが、やはり、花は心を和やかにします。本堂は広いので、数人での参拝は「濃厚接触」には当たらないと思いますので、よろしければお越しください。

 

追記:

政治の話をするとき、その批判が、恩恵を受ける方にとって辛いものであることもあると思います。例えば(あくまで一例ですが)布マスク配布は「アベノマスク」と揶揄されています。政策的にも心情的にも完全な失政であると、私だけでなく多くの方がそう主張しています。

ただ一方で、マスクがなくて本当に困っている人がいて、布マスクという手があるよと政府広報としてしたのであれば数百億かかろうと安いものだという意見(より詳細な私への反論がありましたが、そこは省略いたします)を私自身も直接いただきました。ただ、466億かけての広報はあまりにも無駄でしかありません。マスクの流通をコントロールして医療関係者やその周辺に流れるようにすればよいし、布マスクも全世帯配布などせずに必要に応じて配布すれば466億もかかりません(その分手間と時間はかかるでしょうが)。

緊縮財政を言っておきながら、この無駄遣いができるのは、自分の懐が痛まないお役人や政治家の考えそうなことです。そのくせ、まさしく戦時体制と言わざるを得ない現状のもとで、現金支給についてはまるで社会保障政策かのように所得税が免除されている程度の低所得層にだけ配るという。戦争中、大変なのは低所得層だけではなく、中級層も同じでしょう。布マスクと同じ程度のスピード感でもう少し手厚く補償しないと、「俺は食っていけない」という層はいつまでも休業しません。できません。そこがわからないのも、高級役人と政治家の限界でしょう。

私が批判しているのは政策であって、布マスクをもらうことによって恩恵を被る方達でも、現金をもらえる低所得層の方々でもありません。そこはしっかり保護しつつ、今は、社会保障策を講じている場合ではないというか、目に見えない敵を封じ込めるために人々に休業してもらうために、手厚く補償することが大事、その優先順位の圧倒的な間違いを糾弾しているに過ぎません。

もし社会保障というなら、消費税増税は社会保障に回すというのが公約でしたから、今回の新型コロナへの緊急対策とは別に、元々の予算から全額回せばよいことです。

 

 

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