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2020/07/19 合掌。

三浦春馬という俳優が、自殺で亡くなったという報に接しました。

最近の若い芸能人をあまり存じ上げないところではありますが、名前は知っていましたし、あちこちで活躍しておられますね。これはたまたまなのですが、自殺のニュースが飛び込んできたまさにその日に、三浦さんが出演されていた「世界一受けたい授業」の録画を見ていました。ただ、自殺の報が衝撃的すぎて、実は三浦さんご出演のシーンの前まで見て、三浦さんのシーンはまだ見ておりません。

 

自殺(仏教では自死という言葉を使いますので、以下こちらを用います)について、仏教は否定しない、というお話をしたいと思います。

 

おそらく、自死は悪いこと、自死は人生の苦悩からの逃避だ、弱い人間だと思っておられるかもしれません。そういう面はないとは言えないし、また、自死を考えている人がいるとすれば、できる限り思い止まらせる説得方法を考える必要がありますから、どういう言い方であっても、自死はよくないと言い続けなければいけないと思います。

 

けれど、自死はこの世の欲がなくなった先にあるもので、それ自体悪いこととは言えません。説話の中には、犠牲による自死が描かれてもいます。釈尊の前世において飢えに苦しむ修行僧であった際に、この方に生き延びてもらわねばと、ウサギが自ら火の中に飛び込んだというものです。釈尊の前世の僧も、その意を汲んで、ウサギを食し、生き延びた。

 

犠牲だからよくて、犠牲でなければ悪いというものでもないでしょう。三浦さんの死は、後に述べるように、この世の人間の愚かさに押しつぶされた犠牲の先にあるものなのかもしれませんし。

 

私は、この世に人間を縛り付けるものは欲に他ならないと思っています。欲。出世欲であったり、物欲であったり、はたまた食欲、性欲。性欲は、子孫を後世に残すという欲でもあります。

 

これらの欲が尽きたところに、死がある。もちろん、事故や病により、欲があっても死に至ることはあります。死とは、常に隣り合わせにあるのが、生きとし生けるものの宿命です。

 

死とは隣り合わせにあるけれど、「死にたくない」と思い、いろんな欲に取り憑かれるのが私たち。欲に取り憑かれることが悪いことではないけれど、でも、欲は人を時に狂わせます。少欲知足であるべきですが、そうはなかなかいかない。欲を完全になくせればいいですが、それはかなり難しい。

 

仏教が、本来的に許す欲(欲というとおかしいので、願い、大願ということになりますが)は、衆生をお浄土に救いとるぞという阿彌陀様の願いであり、お釈迦様が人生の苦から衆生を解放したいという願いです。それ以外は、小さな欲、小さな願いでしかありません。

 

親鸞聖人は、「死後、苦のない世界、お浄土に生まれ変わることができるのだということがわかったとしても、なお心がワクワクはしないのです」という弟子の相談に対して、「そなたもか、実は私もだ」と答えたということです。親鸞聖人でさえ、この世での生に執着しておられた。(※後述参照)

 

三浦さんの死の原因はよくわかりません。誹謗中傷に悩まされていたという話もありましたが、誹謗中傷は人間の醜さそのものです。その犠牲になったのかもしれません。そうではない何か別の原因があったのかもしれませんが、いずれにせよこの世への欲を失ったのでしょう。

 

私もまた、自死の気持ちに取り憑かれることは一度や二度ではありません。本当に辛く苦しい思いに駆られることは、半世紀以上生きてくると、何度もありました。そこで死にたいと思っても、子供の顔や自分の置かれた立場を考えたとき、自死を思いとどまる気持ちが大きい。私もまた、欲にまみれた人間です。それが悪いとは思いません。

 

自死を勧めることはしないけれど、否定もしません。三浦さんは才能あふれる方だったようで、追悼の言葉が多く寄せられています。これまでも、才能ある方があたら命を落としてこられましたが、それもまたご本人がこの世での欲を失ったからでしょう。

 

自死を選ばずに、この世の命を全うしましょう。この世の苦に押しつぶされず生きましょう。でも、自死を選んだ方を非難するのは、やめましょう。この世の衆生としての欲を失い、聖人となられた尊い方なのです。

 

南無阿弥陀仏、合掌。

 

(※補足)親鸞聖人は、続けて「欲にまみれた私たち凡夫であるからこそ、大悲大願の阿彌陀様はお救いくださるのだ」と言われた。俗世間の言葉で「アホな子ほど可愛い」というのがありますが、大悲大願にも気づかない、阿彌陀様の存在すら疑う我ら凡夫こそ、阿彌陀様は真っ先に救いとってくださる。阿彌陀様の願いに沿った生き方ができない私たちだからこそ、阿彌陀様は優しく見守ってくださっている。

私たちは、できないことかもしれないけれど、大悲大願に気づき、できる限り真っ当な生き方をしよう、せめてそれくらいは肝に銘じておくべきでしょう。

 

付記:

仏教では自死を否定しないと申しましたが、ありのままにと考えると、生への執着がなくなった上での自死もまたありのままであり、それは仕方のないことであるという意味ではそうなります。ただ、自死は生の執着とは反対に死への執着と言えます。何事にも執着をしないこと、生きることにも死ぬことにもこだわらず、ありのままに生きるということからすれば、よくはない。自死もまた殺人の一種です。自分という存在も、他人という存在も、生命のバトンタッチの中で、お預かりしている尊い命。それを生死の執着を離れて次へバトンタッチするためにあるがままに生きる。それが大事です。本文でも書いたように、自死を積極的に肯定する意図はありません。

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