僧侶でも悩みます-佛華をお供えしました

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2022/10/16 僧侶でも悩みます-佛華をお供えしました

僧侶は悟っているから悩みはないのでは?

 

そう思っておられる方も多いかもしれません。しかし、お釈迦様ほどに悟ることのできている僧侶はほぼいないでしょう。お釈迦様であっても、教団を乗っ取ろうとするものが現れたり、苦労はされたわけです(悩むことなく解決されたのかもしれませんが)。何はともあれ、煩悩でできているのがこの私。僧侶でも悩むのです。

 

先日、以前お世話になった方がSNSにこんなことを書かれていました。有名な仏教ネタですが、地獄と極楽では、うどんを茹でる釜があって、いずれも皆1メートルの箸の端を持って食事をするが、地獄では我先に自分が自分がとなって食べることができない、極楽では箸でつかんだ食べ物を他人に食べさせてあげるので皆食事を摂ることができる。この話を紹介された後、「これを皆さんありがたがって聞いている」「極楽に行ってまで周りの人に配慮して生活せねばならないとは、極楽か?」といった内容のコメント(やや言葉を変えています)をされていました。

 

私もこの話はもちろん知っていますが、私はこの話はこの世での苦悩の一つである人間関係において、利己的な我利我利亡者でいるよりは、利他的な生き方の方が楽に生きられますよという比喩的な話だと考えています(※※)。

 

あの世(お浄土)は私はあると思っていますが、かといってあの世に行った人がこの世に帰ってきたケースはありませんので、実際のところはわかりません。親鸞聖人も、(南無阿弥陀仏を称えれば必ずお浄土に行けるという)法然上人のお言葉がたとえウソで地獄に堕ちるようなことがあったとしてもそれはそれ、そのときは地獄は私が死後住むべき定めなのだとおっしゃっています。

 

お浄土があるのか地獄があるのかも分かりませんし、死後どこに生まれ変わるのかもわかったことではありません。お浄土も地獄も、どんなところか知っている人はおそらくいません。大体において無宗教者の方々からすれば、死後の世界なんてないということになります(信仰心と死後の世界を信じるか否かは別物とも言えますが)。

 

血縁関係にある親族(遠い親戚も含め)の中には、「親の生前は十分孝行してきたが、死後はお経を上げてもらう必要はない、お経を聞いてもありがたいと思ったことはない」とはっきり言われる方もいますし、また今の言葉で言えば「お寺はオワコンだ」(※)という人もいます。もちろん、多くの親戚は寺に親しみを持ってくれていますが。

 

最初に挙げた仏教ネタは、箸やうどんという物質が出てきます。お経の中にも、極楽浄土は金銀瑠璃玻璃でできた煌びやかな世界と表現されることがありますが、これは衆生に分かりやすく説いたもので、物質的なものがあの世にあるのか、私は懐疑的です。物質的なものがあるとすれば、それはこの世と変わりのない世界ではないか。不平等も苦しみもこの世と変わりなくあるとすれば、何とも切ない。不老不死の苦しみと同じです。平等で平和裡な世界を念頭に置けば、皆が皆「千の風」であると考えた方が自然ではないか。ただ自由にどこでも飛び回れる。何にでも存在する。昔は「米一粒にも仏様が宿る」と言われましたが、この世の全ての有機的無機的な物質には、仏様が宿っていると感じます。死後は、そうやって万物に宿り風のように飛び回って、阿弥陀様の光の一部となってこの世の衆生を見守るのではないでしょうか。

 

オワコン(※)扱いされたり、(仏教話で)ありがたがるなんてと揶揄されたりするのを見るにつけ悲しい気持ちになります。直接面と向かってなら反論することもありますが、直接であれSNS上であれ、反論はなるべくしないようにしています。かえって「ムキになってるよ」と思われそうですし、今となっては日本仏教にあって信者数の多い浄土宗・浄土真宗の祖である法然上人が、弟子たちに他宗と論争するなとおっしゃったのは、わかってもらえない人にはわかってもらえないという諦念の境地にあったからでしょう。私も反論せずに、ただ多くの方に仏教をどうすれば理解してもらえるか、寺をオワコン扱いされないで済むかと、日々悩み考える毎日です。

ちなみに、もっと俗っぽい悩みもあります。寺の主サイトで公表するようなことではありませんのでやめておきますが。

 

(※)オワコンとは、「終わったコンテンツ」の略で、すなわち昔はニーズのあったものだが現状では価値がないということで、ポケベルが好例ですし、フィルムを用いるカメラも、マニア的には意義はあるとはいえ一典型例でしょう。

 

ちなみに、死後は「千の風」になるんだと言えば、それはそれで嫌だという人もいます。お浄土に行くんだと言えば「強制送還」されるのは嫌だという人もいます。あの世はなくて何も見えないただ眠っているだけと言えば「それは味気ない」という人もいます。結局は、人間の煩悩のなせるわざ。

野菜嫌いもいれば魚嫌いもいます。嫌いなもの嫌な物を見ずに、これが好きという物を突き詰めれば、苦悩は和らぐのではないでしょうか。もっとも、好きなものだけに没頭していてはこの世は味気ないかもしれませんが。

 

(※※)1人だけなら料理を作るのもまあ適当でいいかとなるけれど、家族がいればちゃんと考えようと思うという意見をSNSでもよく見かけます。私も、自宅をつい散らかしてしまいますが、お客さんが来られるとなればきれいに片付けるインセンティブになります。都会の孤独なんていう言葉もありますが、他人と隔絶したような生き方をしていると自暴自棄な犯罪も多いように思います。他人との関わり、他人のためにという利他の気持ちがあることが社会を安穏たらしめると思えるのです。

 

 

さて、佛華をお供えしました。前回お供えしたものをしばしそのままにしていたらえらく朽ち果てまして(10月に入っても結構暑いですね)。これもまた諸行無常。今回はごくシンプルに、ヒバを背景に菊を前景にして、ケイトウをワンポイントにしました。白く小さな花がたくさんついている背の高い花の名前を忘れてしまい、画像検索で調べてみるとひな菊(デイジー)とかかすみ草が出てきますけれど、違いますよね。また花屋さんに行って調べておきます。

 

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