僧侶は悟りを開いているのか

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僧侶は悟りを開いているのか

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2024/10/15 僧侶は悟りを開いているのか

タイトルを見て、皆様どのように思われたでしょうか。

 

悟りを開いていないのに僧侶を名乗っていいのか?と思われた方もおられるでしょうし、いやいや、僧侶とて人間、悟りなんて開けないでしょうと思う方もおられると思います。

 

私は、よほどのことがない限り、僧侶でも悟ってはいないだろうと思っています。自分が悟っていないから、他の僧侶も悟っていないというのか?とお怒りの方もおられるかもしれません。でも、やはり、僧侶とて、悟りを開くのは難しいと感じております。

 

お釈迦様は、仏教的観点からすれば、唯一悟った方です。ブッダとは、まさに覚醒した方。覚醒した方は、歴史的にはゴータマ・シッダールタつまりお釈迦さましかいないともされます。2千数百年の歴史で、たった1人。それが本当に悟るということなのでしょう。

 

ただもちろん、悟りに限りなく近づいた人はたくさんおられます。菩薩と慕われた人間は1人や2人ではありません。私が敬愛する一休さんは、悟りを開いた(少なくとも悟りに限りなく近づいた)僧侶ですが、しかし、風狂とも呼ばれ、破天荒な生き方をされました。悟った後の生き方が大事なのだよと、かえって世間に反感を受けるような振る舞いもされた。なかなか理解されない部分もありますが、しかし大徳寺の住持に推挙されたりと、人望もあった。真偽の程は定かではありませんが、天皇のご落胤と言われ、人脈も多々あったのでしょう。

 

親鸞聖人も、悟りに限りなく近づかれたお一人(ご本人は、悟りなど無理だと謙遜されていますが)。だからこそ、私たちはその思想に惹かれます。

 

親鸞聖人は、自らを、この哀れな凡夫という意味も込め、愚禿親鸞と名乗られました。愚禿。愚かな禿げ。「はげ」というのは、髪の毛をちょんまげにしたり、あるいは綺麗に剃髪したり、整えることをせずにいることを言います。毎日毎日整髪することは、現代人でもできませんね。散髪屋さんで綺麗にしてもらったら、しばらくはそのまま。親鸞聖人は僧籍を剥奪され流人として越後に送られたこともあります。日々暮らす中で僧籍もなく、かといって俗人でもないという意味で、非僧非俗とも自称されました。半僧半俗ではありません。非僧非俗。

 

私ももしかしたらこの違いを正確に把握していないかもしれませんが、簡単に言えば、半僧半俗とは、僧侶と俗人の兼業。都合よく今は僧侶、今は俗人となること。必ずしも悪い意味ではないけれど、少し中途半端な立ち位置が半僧半俗と言えるでしょう。

 

一方、非僧非俗とは、僧でもなく俗でもないという悲壮な覚悟であり、どちらにもぶれないという中庸の思想でもあります。中途半端にどちらかに逃げるのではなく、聖なる心は保ちつつ、俗なる自分を忘れない。悟りの開けない愚かな禿げであることを胸に刻みつつ、阿弥陀様への報恩感謝の心を持ってのみ、生きる。

 

私は僧侶ではありますが、俗人でもあることを忘れられません。先日、財布を落とした話をしましたが、心の中ではきっと出てくるだろうと思っておりましたし、そう願っておりました。祈りは真宗の教えではないとしても、私も人間ですから。でも、かなり日も経ったので、もう出てこないでしょう。あらゆる個人情報が入っておりましたので、心ある人に拾ってもらえていたら、すぐに連絡をいただけたものと思います。

 

そんな中で、私の心の中には人を恐れる気持ちが生じました。私の周囲には財布を拾ったらすぐに届ける人ばかりですが、そうでない人がこの世には多々いる。私の父も生前落とした財布は出てきませんでした。人間の顔をしていて人間の心を持っていない人がこの世にいる。そんな恐怖が湧いてきました。カード類は覚えている範囲で全てストップしましたが、本当に悪知恵の働く人に拾われていたら、何をされるかと不安で仕方ありません。お金を落としたことよりも、そのことの方が心身に不調をきたすくらい辛い。

 

ただこの気持ちは、私の中の汚れた部分でもあります。財布をなくしたことをくよくよせず、前を向いていけばよい。単なる物ではないか。「執着するな」は、仏の教えの根本の一つでもあります。しかしなかなか執着心は消えるものではない。本当に苦しいです。

 

『あっかんべえ一休』という坂口尚さんによる漫画がありますが、その中に蓮如さんとのエピソードが描かれています。一休さんと蓮如さん(本願寺教団中興の祖)は、一休さんの方がかなり年上だったようですが、同じ時代に生き、親交もあったそうです。蓮如さんに向かって、一休さんが「悩みがなければ悟りもない 苦しみがなければ楽しみもありえない 哀しみがなければ喜びが何かもわからない!」と述べているシーンがあります。両手をパチンと合わせて。

 

光があって影がある。ブラックホールの反対側はホワイトホールなどという話もありますが、その真偽はさておき、善があってこその悪、悪があってこその善。

 

僧侶は白鳥のごとく水面下で必死に足を動かして泳いでいても何食わぬ顔をしているべきかもしれません。そして、それを皆様に見せていればいいのかもしれません。しかし、私は、悟りも開けぬ、また、半僧半俗の中途半端な「僧侶」であるとの自覚を公表しつつ、悩みから生じる「果実」もあるものと信じて、この悩みを乗り切りたいと思っています。そして、もし、悩みの淵にたたずみ、苦しい思いをし救いを求めている方がおられれば、明確な答えを出す力などありませんが、ただその方とともに、悩みたいと思います。

 

悩んで悩んで、生きていくしかないのです。そういえば、一休さんも死のうとして死にきれなかった経験をお持ちです。

 

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