真宗とは

超願寺

06-6631-8956

〒556-0016 大阪府大阪市浪速区元町1-12-3

lv

真宗とは

ブログ

2017/09/08 真宗とは

大仰なタイトルにいたしましたが、少し考えさせられましたので、私見を少々。

 

FBをみておりましたら、以下のような法語が書かれた掲示板を写した写真が投稿されていました。

 

仏教は「ねばならぬ」の宗教ではなく

「であった」の宗教である

高光大船

 

まず告白せねばならないことは、高光大船という方を私は存じ上げませんでした。不勉強を恥じいる次第ですが、暁烏敏とも行動を共にしており、清沢満之に師事した真宗の碩学とのこと。

 

詳しいことを調べる時間がありませんでしたので、高光師のご見解は確認しておりませんが、私見ということでご了解ください。

 

法律学では、seinかsollenかという議論があります。詳細は述べませんが、簡単に申せば、法律(ルール)の多くは「すべき(sollen)」であり、「である(sein)」ではないということです。例えば、「男である」というのはルールではありませんね。でも「男は男らしくあるべきである」というのは現代では口に出しにくい雰囲気ではありますが、一つの(暗黙の)ルールです。ただ、もちろん、法律にも「である」は時折存在します。この辺を深く掘り下げると、それだけで長文になるので、やめておきます。

 

仏教は、結論からすれば「こうすべきである」といういわゆる「べき論」ではありません。もし仏教が「ねばならぬ」の宗教であるなら、それは道徳とどう異なるのか。「○○すべからず」「××すべきである」ということばかり書きつらねるのが仏教ではありません。時折、そうではないことも言ってますね。むしろそうではないことも多いのではないでしょうか。無理するなと言いますし、「殺すなかれ」という道徳に対して「(殺してはいけないのは当然だけれど)私たちは動植物を殺してそこからエネルギーを得ている必要悪である、贖罪の気持ちを持ちながら、殺すことは仕方ないではないか」というわけです。

 

では、「であった」というのはどういうことでしょうか。考えて考えて、悩んで悩んで、でも自分ではどうしようもない、というところに至ったとき、すとんと腑に落ちる。腑に落ちたと思っても、やはりこうではなかろうか。揺れ動く。その中で、真理にぶつかる。「そうであったなあ」と理解すると同時に、真理に「出会った」否むしろ「出会わせていただいた」のではないでしょうか。

 

真宗には、その真髄とされるキーワードがいくつもありますが、それぞれに奥が深く、わかったつもりでもやっぱり違うかなあと思うときもある。でももっと考えると、やはりそうではないか、と腑に落ちることがあります。これも逐一お話しすると長文になりますので(ここまででも十分長文ですが(苦笑))、やめておきます。

 

私は、真宗とは、何が真理か考え続けよ。悩め。苦悩はこの世につきものだ。そんなものに惑わされるのではなく、自ら苦悩を楽しめ。そういうものだという気がしています。

 

この見解も、もちろん、もう一度考え直すと、違う気もします。でも、苦は人生につきものだ。苦しいことを何とかしようとするから苦しいのだ、ということはお釈迦様の教えそのものです。

 

まずは行動し、苦悩し、実践してみる。うまくいかないかもしれないけれど、あちらにぶつかりこちらにぶつかりながら、前に進んでいく。振り返ってみると、「であったなあ」と。それが真宗なのかもしれません。

TOP