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〒556-0016 大阪府大阪市浪速区元町1-12-3
京街道を歩いて本山へ行こう企画&佛華をお供えしました
1ヶ月以上、投稿しないままでした。何だかやる気が出ませんでした。こんな時もあるさと自分で自分を慰めつつ、でも、こんな時だからこそ、続けないとダメですね。そう思って、久々の投稿です。
前回、大阪(大坂)から京街道を歩いて京都へ向かったのは、6月も末のことでした。あまりの暑さに、熱中症になっては大変だからと一時中断していました。秋になったら再開するつもりが忙しくなったこともあり、ここにきてようやく再開できそうです。とその前に、少しだけ時間ができたので、リハビリ兼ねて、京橋から自宅・超願寺まで、歩いてみました。
京橋までまずは電車で行き、そこからお寺まで帰る方向にしました。反対に歩くのも見る方向が変わっていいかなと思いまして。なお、たいていの画像は以前にも投稿したものと類似するものですが、少しお付き合いください。
この道標の「右大坂」に従って右に進む、と言いたいところですが、以前も歩いた京阪電車沿いの同じ道を歩くのもちょっと面白くないなあと、画面で言えば正面に向かってまっすぐ進むことに。いやまあ、今は道路が整備されて京橋(現在でいうところの。後述参照)界隈をどのように歩こうと大したことではないのですが。
少し行けばもう大阪城。そう言えば京橋近辺の地形も元は川が流れていたらしく、現在道路が何本か並行して走っていますが、それぞれの間は階段や坂があり結構高低差があります。お堀も含め元は天然の要害だったんでしょうね。
大阪城の北西、天満橋に近いところにこのような碑が。雑魚場市場のほか、木津や天満などいくつか市場はあった中で、ここに川魚に関する市場があったそうで、説明によると石山本願寺にあった鮒市場が起源。
ちなみに、ここに京橋とあるように、このすぐそばに、街道の起点となった「京橋」という橋があります(大坂の橋は豪商など民間が作ったものが多いですが、これは数少ない公儀橋だそうです)。現在の一大歓楽街でありJR、京阪等が交差する「京橋」が起点ではなく、大阪城の北の出入り口あたりが起点だったようです。この点、訂正させてください。失礼いたしました。Wikipediaによりますと、従来京橋と名乗った地域は天満橋から北浜あたりだそうで、現在の京橋と認識される地域とはズレるそうです。
突然現れる年季の入った階段が、天満橋から北浜に向かう間にありますが、それは八軒家舟着場に降りる階段だったとか。現在の大川と八軒家浜は少し北にありますが、府道168号線(土佐堀通)になっているところに川が流れていたようです。写真上は老舗の昆布屋さんの前にありました。この昆布屋さんも、そのときの8軒のうちの1軒だったのでしょうか。
そして、明治以降に京街道の起点となった高麗橋到着。
高麗橋から少し歩いた堺筋と御堂筋の間にある平野町の写真(北陸銀行に深い意味はありません)。このあたりに平野御堂と呼ばれた真宗佛光寺派の大阪別院が50年ほど前までありました。手狭なため、あびこの現在地に移転。旧所在地に石碑でも建ててもらえるといいのですが。
途中、石山本願寺の流れを汲むとされる北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)内にあるミュージアムにも立ち寄りました。館内、撮影できるところとできないところがあるようで、明確にはされていないので撮影は諦めましたが、国宝級の古地図などが展示されていました。
その後いつも行く花屋さんに立ち寄って佛華を購入したりと寄り道をしながら1時間40分ほどの行程でした。歩くだけなら1時間20分程度だと思います。親鸞聖人は関東で、稲田の草庵を中心に半径35〜40キロメートルくらいの範囲を布教にまわっておられたと言いますから、そう考えると難波から京橋(6キロほど)はさほど遠くないですね(難波から長岡京までがおおよそ37、8キロ)。
佛華を供えました。少し前に一度お供えしたのですが、そのときも投稿する気が起きずにいました。今回、正月バージョンにする前に、一度お供えしたものの枯れた花などを取り除き、少しだけ手を加える形です(上が少し前、下が今回)。
古いものと新しいものを混在させると古いものから出る物質で新しいものも枯れるのが早まると言いますからあまりいい方法ではないのですが、枯れていない花を捨てるのはもったいないですし、もうしばらくこの普通バージョンで、数日したら正月バージョンにしようと思っています。
#京橋
#京街道
#大坂城
#北御堂
#浄土真宗
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#佛華
#仏花
#供花
24/10/12
24/07/18
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1ヶ月以上、投稿しないままでした。何だかやる気が出ませんでした。こんな時もあるさと自分で自分を慰めつつ、でも、こんな時だからこそ、続けないとダメですね。そう思って、久々の投稿です。
前回、大阪(大坂)から京街道を歩いて京都へ向かったのは、6月も末のことでした。あまりの暑さに、熱中症になっては大変だからと一時中断していました。秋になったら再開するつもりが忙しくなったこともあり、ここにきてようやく再開できそうです。とその前に、少しだけ時間ができたので、リハビリ兼ねて、京橋から自宅・超願寺まで、歩いてみました。
京橋までまずは電車で行き、そこからお寺まで帰る方向にしました。反対に歩くのも見る方向が変わっていいかなと思いまして。なお、たいていの画像は以前にも投稿したものと類似するものですが、少しお付き合いください。
この道標の「右大坂」に従って右に進む、と言いたいところですが、以前も歩いた京阪電車沿いの同じ道を歩くのもちょっと面白くないなあと、画面で言えば正面に向かってまっすぐ進むことに。いやまあ、今は道路が整備されて京橋(現在でいうところの。後述参照)界隈をどのように歩こうと大したことではないのですが。
少し行けばもう大阪城。そう言えば京橋近辺の地形も元は川が流れていたらしく、現在道路が何本か並行して走っていますが、それぞれの間は階段や坂があり結構高低差があります。お堀も含め元は天然の要害だったんでしょうね。
大阪城の北西、天満橋に近いところにこのような碑が。雑魚場市場のほか、木津や天満などいくつか市場はあった中で、ここに川魚に関する市場があったそうで、説明によると石山本願寺にあった鮒市場が起源。
ちなみに、ここに京橋とあるように、このすぐそばに、街道の起点となった「京橋」という橋があります(大坂の橋は豪商など民間が作ったものが多いですが、これは数少ない公儀橋だそうです)。現在の一大歓楽街でありJR、京阪等が交差する「京橋」が起点ではなく、大阪城の北の出入り口あたりが起点だったようです。この点、訂正させてください。失礼いたしました。Wikipediaによりますと、従来京橋と名乗った地域は天満橋から北浜あたりだそうで、現在の京橋と認識される地域とはズレるそうです。
突然現れる年季の入った階段が、天満橋から北浜に向かう間にありますが、それは八軒家舟着場に降りる階段だったとか。現在の大川と八軒家浜は少し北にありますが、府道168号線(土佐堀通)になっているところに川が流れていたようです。写真上は老舗の昆布屋さんの前にありました。この昆布屋さんも、そのときの8軒のうちの1軒だったのでしょうか。
そして、明治以降に京街道の起点となった高麗橋到着。
高麗橋から少し歩いた堺筋と御堂筋の間にある平野町の写真(北陸銀行に深い意味はありません)。このあたりに平野御堂と呼ばれた真宗佛光寺派の大阪別院が50年ほど前までありました。手狭なため、あびこの現在地に移転。旧所在地に石碑でも建ててもらえるといいのですが。
途中、石山本願寺の流れを汲むとされる北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)内にあるミュージアムにも立ち寄りました。館内、撮影できるところとできないところがあるようで、明確にはされていないので撮影は諦めましたが、国宝級の古地図などが展示されていました。
その後いつも行く花屋さんに立ち寄って佛華を購入したりと寄り道をしながら1時間40分ほどの行程でした。歩くだけなら1時間20分程度だと思います。親鸞聖人は関東で、稲田の草庵を中心に半径35〜40キロメートルくらいの範囲を布教にまわっておられたと言いますから、そう考えると難波から京橋(6キロほど)はさほど遠くないですね(難波から長岡京までがおおよそ37、8キロ)。
佛華を供えました。少し前に一度お供えしたのですが、そのときも投稿する気が起きずにいました。今回、正月バージョンにする前に、一度お供えしたものの枯れた花などを取り除き、少しだけ手を加える形です(上が少し前、下が今回)。
古いものと新しいものを混在させると古いものから出る物質で新しいものも枯れるのが早まると言いますからあまりいい方法ではないのですが、枯れていない花を捨てるのはもったいないですし、もうしばらくこの普通バージョンで、数日したら正月バージョンにしようと思っています。
#京橋
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#浄土真宗
#真宗佛光寺派
#佛華
#仏花
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