人生の意味はその2-自己肯定感が高いことは常に善か

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人生の意味はその2-自己肯定感が高いことは常に善か

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2024/02/02 人生の意味はその2-自己肯定感が高いことは常に善か

前回に引き続き、森岡正博氏のコラムに刺激されての投稿です。哲学というと小難しく聞こえますが、人生って何なんだろうという気持ちは、おそらくほとんどの人が一度は感じるまたは悩むことではないかと思います。

 

以前、インドで、ある人が両親を相手取って、産んでほしいとは思っていないのにこの世に産まれてしまったことに対する損害賠償の訴えを提起するというニュースがありました。うろ覚えですが、お父さんは弁護士だったのではないかと思います。実際、この裁判がどうなったのかはわかりませんが、日本の感覚で言えば、おそらく却下(門前払い)ではないかと推測します(※)。

 

さて、森岡氏の2月1日付の「あすへの話題」の一部抜粋です。

「(前略) たとえば哲学者たちは、「人生に意味を与えるものは何か」という問いと、「そもそも人生が存在する意味は何か」という問いを区別する。これは哲学であるからこそ可能になった成果である。

まず、「人生に意味を与えるものは何か」というのは、人がどんな生き方をしたときに人生は有意味なものになるのかという問いである。それに対しては、社会に貢献するような仕事ができたときに人生は有意味になるとか、自分の設定した目標を達成できたときに人生は有意味になるとかの答えが提案された。

次の、「そもそも人生が存在する意味は何か」であるが、これは深刻な問いを含む。若者と話をしていると、「いつか死んでしまうのに、どうして生きないといけないのですか?」と聞かれることがある。あるいは、「そもそも人生には意味なんてないし、宇宙が存在することにも意味はない」と言ってくる人もいる。

現在のプロの哲学者による研究の多くは、この後者の問いに正面から答えているとは思えない。実は私が哲学を始めたのも、後者の問いから逃れられなかったからである。私は人生の意味の哲学を、これらの問いにきちんと答えられるものにしなければいけないと考えている。」

「そもそも人生には意味なんてないし、宇宙が存在することにも意味はない」というのは、なんと虚無的な考え方でしょうか。ただ、これは一面では真実を言い表しているようにも思えます。

 

「我思う、ゆえに我あり」というのは有名な言葉ですが、意識というものがない限り、私もなく、また人生というものもないのかもしれません。とすると反対に言えば、意識がある私たちには人生というものがあるし、人生に対する意味づけもされるのではないか。その意味付けは、主観的にも、また客観的にもされることがある。人類に意識がある以上、私の人生の意味を私も決定づけたいし、私の人生を他者からも意味のあるものだと思ってもらいたい(無意味だと思われる可能性はありつつも)。

 

少し異なる話ですが、自己肯定感を持つことが大事だという風潮が高くなってきました。ところが、自己肯定感が高くなりすぎると「無敵」になりすぎるいわばナルシスト的な意識を持ってしまう人がいるようです。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。

 

日本人は、比較的自己肯定感が弱かったと思います。卑屈になる必要はないものの、「我以外皆我師也(われいがいみなわがしなり)」という言葉がありますけれども、謙虚な気持ちを持つことで、他者に敬意を表する気持ちも備わる。もちろん、自己肯定感が高いからこそ、他者をも肯定することができる場合もありますから、一概には言えませんし、自己肯定感と謙虚な気持ちは相反するものではないのかもしれません。

 

とはいえ、人間、自らを肯定したり否定したりの連続ではないでしょうか。ずっと肯定し続けることなんてどだい無理です。エリートがちょっとのつまづきで転落するような話もありますが、自分を否定せざるを得ない状況に陥ったとき、「そんなはずはない」と無理をすることで、余計事態が悪い方向に動くこともある。

 

結局、前回述べたことに行き着くわけですが、常に考えることが、人生の意味ではないでしょうか。個人的に、人生に意味はないという考え方には賛同できないけれども、考えた結果がそうであった方がおられれば、それもまた一つの人生の意味である。

 

人生わずか100年足らずで、地球の46億年と比べると「あっ」という間もないでしょう。宇宙誕生から比べればもっとです。その宇宙にさえ意味がないかどうかは、私にはわかりませんが、現に宇宙、そして地球というプラットフォームがあって、私という命が生まれた。宇宙空間には生まれる可能性すらなかったはずです。

 

何をもって意味があるとかないとかいうのか。それすら人間のエゴですから、堂々巡りの議論になってしまいますが、生まれることは苦しいことだとお釈迦様もおっしゃいました(生・老・病・死の四苦のうちの「生」の意味は、生きることではなくて生まれることです)。この世は苦しい。一切皆苦。だけれども楽しい世界でもあるし、生まれてきたからこそ、尊い仏法に出会えた。

 

ここにある命という奇跡を大事に、命が尽きる瞬間まで生きる。それだけで、人生に意味はあるのではないでしょうか。

 

いつか死んでしまうからといって、今の命そのものが奇跡です。苦しい人生というものはあるわけですが、やはり、意味のない人生はない。そう、私は結論づけたいです。2度にわたって長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

(※)日本の法律を前提とすると、損害賠償請求が認められるためには故意または過失による不法行為があって、それとの因果関係がある損害があることが必要です。わかりやすいのは車に轢かれて重傷を負ったら、重傷に伴う治療代や休業補償が損害として認められます。子供を産むことが不法行為なのかと問われれば、やはり違うとしか言いようがありませんし、もし実質審理に入ったとしても、不法行為がないということで損害賠償請求は認められないように思います。

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