浄土真宗とは

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浄土真宗とは

仏教と浄土真宗

はじめに

 浄土真宗は、鎌倉時代の僧、親鸞聖人が宗祖です。
 親鸞聖人自身は、自分で宗派を興すことを宣言したことはなく、師の法然上人の興した浄土宗を信仰し、その教えをひたすら信じたものとされております。
 聖人の弟子達が、聖人の死後、宗派を浄土宗から独立させたわけです。
 もともとは、一向宗とか、念仏宗などと呼ばれておりましたが、いつの頃かは定かではありませんが、親鸞聖人が浄土宗を誉めたたえる言葉として浄土宗こそ「浄土の真宗である」と述べたことをもって、江戸から明治の頃に、宗名を「浄土真宗」と名付けたものと考えられております。

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 浄土宗との間で「真と名乗るとはどういうことか、浄土宗は偽というのか」という論争も巻き起こり、浄土真宗とは名乗らずに、単に「真宗」と名乗るようになりました。もっとも、昭和になってから、本願寺派のみ浄土真宗を名乗り、他の派は真宗を名乗っております。
浄土真宗には、浄土真宗本願寺派(お西。本山・西本願寺)、真宗大谷派(お東。東本願寺)、真宗高田派(専修寺)、真宗佛光寺派(佛光寺)、真宗興正派(興正寺)、真宗木辺派(錦織寺)、真宗出雲路派(豪摂寺)、真宗誠照寺派(誠照寺)、真宗讃門徒派(専照寺。以前は「三門徒派」と表記していました)、真宗山元派(證誠寺)があります。

 これら10派は、真宗教団連合を組織し、互いに協同できるところは協同しながら、活動しております。

浄土真宗のみ教え

 一言で申しますと、ただ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えよう、阿弥陀如来さまにおすがりして生きていこうということです。専修念仏(せんじゅねんぶつ)と言い表されることもあります。

 そんな簡単に救われることはなかろうと思われるかもしれません。ただ、「死」はお釈迦様が仏教を興された当時から人間の主要な「苦」の一つとして示されました。

 そしてその「苦」はどこから来るのかといえば、自分ではどうしようもないからです。死は人間である以上、どうしても避けられません。いくら修行を積んでも無理。そして、もし仮に修行を積んで乗り越えることができたとしても、少なくとも私には無理。そこから、人智の及ばない世界を司る存在としての阿弥陀様におすがりしようではないか、おすがりする以外に救われる道はない、と考える一派が誕生しました。それが、浄土教(浄土門)です。それまでの聖道門が苦しい修行を積んでこそ「死」を乗り越えることができる(そして極楽往生できる)と考えたのとは異なり、阿弥陀様は私たちを救ってくださる尊い存在であり、その方におすがりしようではないかと、それしかないではないかと、考えたのです。

 仏教の崇拝する仏様や経典は宗派によって様々ですが、浄土真宗が崇拝するのは阿弥陀如来で、重用する(所依の)経典は「仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)」と、親鸞聖人がこれらを解説した教行信証の主要な一部を切り取った「正信偈」です。

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いわんや悪人をや

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 浄土真宗の教えとして有名なものに「悪人正機」があります。これは、「善人なをもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉を一言で表現したものですが、一般に誤解されやすい内容を含んでおります。悪人の意味を取り違える人が多いからです。

 これを正確に理解すれば浄土真宗の真髄を理解したと言えるほど重要なことで、なかなか簡単には説明できません。さしあたり言えることは、「悪人」というのは犯罪者ではなく、どれだけ頑張ったところで、煩悩を完全に消し去ることはできない人、すなわち人間のほとんどは悪人だと捉えるべきなのです。

 私たちには食欲や性欲があります。 それ以外にも色々と欲望がありますね。お金持ちになりたい、名声を得たい。こういった欲を完全に消せる人は、いるでしょうか。

 反面で善人とは、自分で徳を高めるために努力し、それこそ一切殺生せず、他人に対する妬みもそねみも持たずに生きている人のことであり、それができるのであればそれでいいけれども、多くの人はそうではない。そしてもし、そのように善人になれる人であれば、阿弥陀如来はその人の自力に任せられるであろう(任せたうえで、そっとそばから見守ってくださるのみである)。

 そうではなくて、阿弥陀さまは、愚かな私達を極楽浄土に導くためにこそ力を発揮されるのである、ということです。人間が想像もつかないほどの長い年月を修行して、阿弥陀如来という超能力(こういうと俗っぽくなりますが)を有する地位を得た。

 超絶した能力を備えた阿弥陀様は、「悪人」である愚かな私達でさえ、あの世では極楽に往かせてくれるんだということ、それが、悪人正機説の真髄です。

 悪人が善人に勝るという意味ではなく、ただ、阿弥陀さまは、煩悩(欲望)に勝てない私たちを救ってくださる。 自分で泳いで渡ることのできない私たちをこそまずは救ってくださる。 自分で煩悩に打ち勝つことのできる善人だけでなく、私たち悪人でさえ、救ってくださる。 阿弥陀さまはそれくらい偉大な存在なのだ。そういうことです。

本山・佛光寺について

 本山とその末寺である当寺の関係は本店と支店という関係ではありません。むしろ、本山ないし当派が大事にしている教えを、本山を代理して皆様にお届けするつなぎ役の立場であり、ある意味代理店なのかもしれませんし、代理店でありながら独自の立場でもあります。本山とは深く長い付き合いでありながら、本山とは独自の立場をも有するのです。

 さて、本山佛光寺は、草創には諸説あり、寺伝では新潟から関東へと活動の拠点を求められていた中で、師の法然上人の逝去の報に接し、京都に一時帰還した親鸞聖人の開基とされます。

 はっきりしない点もありますが、親鸞聖人の教えに感動した門徒(信者)が多く帰依し、財政的にも豊かな組織を作り出し、浄土真宗全体の経済的繁栄をもたらした宗派の一つであることは間違いありません。

 仏教の聖地であり、都でもある京都に本山を置く宗派は、真宗の中ではお西、お東のほか興正寺と佛光寺だけです。興正寺と佛光寺ももとは同じ宗派でしたし、決して東西本願寺だけが浄土真宗の本筋であるというわけではありません。

 宗教は一種人気商売のような面を否定することはできず、当時人気のあった当派第7代門主の了源上人が暗殺され、その後に蓮如上人が親鸞聖人の墓所を預かる本願寺の住職を継いだという歴史的経緯が、本願寺隆盛・佛光寺衰退をもたらしたのでしょう。それもまた昔話です。真宗教団の中で互いに優劣を競うよりも、真宗全体として、21世紀のこの世に教えが生き続けるということが、これからは大事だと思っています。

 現在、当派末寺は350ほどで、親鸞聖人の足跡と重なり京都を中心に関西から北陸、上信越に多く存在します。東西本願寺と比べれば小規模ですが、しっかりと地に足をつけた活動をしています。

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