死者への想い

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死者への想い

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2017/10/24 死者への想い

葬儀(通夜)の際に、法話をさせていただくのですが、いつでもお話しすることは、「故人との別れは悲しい、しかし悲しむことを故人は望まれるであろうか、故人への弔いと考えるなら、悲しむことなく、この世の生を精一杯生きることが大事だ」という内容です。

 

愛別離苦(愛する人との別れに苦しむこと)は、お釈迦様の時代からあったこと。人は必ず死ぬのだから、別れもまた必然。そうであるなら、仕方のないことと割り切れば良いではないか。

 

実は、私は大事な人を亡くしています(詳しくは今は語りません)。よく、芸能人でも、交通事故で愛娘を亡くしたタレントさんが、悲しみはいつまでも癒えることはないと言っていたり、菅原文太さんは、息子さんが亡くなった後に、半ば引退状態になったりということがありますが、私は時が経てば気持ちは癒えるはずではないのかと、そう思っていました。

 

しかし、自分が同じような目にあうと、時は何の解決にもならないことがよくわかります。もう1年半、いやまだ1年半。生きていたらこうだったろうなと、毎日そんな想いに押しつぶされそうになっています。正直、その前と今とでは、180度人生が変わってしまったし、毎日の生活が忙しい中でも、何か投げやりな、どうにでもなれといった気分になることもあり、毎日神経をすり減らす戦いが、心の中で繰り広げられています。寿命が5年は縮まっただろうと感じています。

 

だから、先に述べたように、私が葬儀の際にお話しすることは、参列者に通じているのであろうかと、不安になることもしばしばです。長生きされた方が大往生する場合と、若くして亡くなる場合とでは感情は全く異なるでしょうし、とりわけ親より先に子が亡くなるのは逆縁という言葉があるように、古来から悲劇とされるわけです。

 

人間、何かを考えるとき、必ず主観的と客観的の両方があり、この場合に2つの対応がありえます。

 

先ず、自分がその立場に立たされれば主観的にしか反応できないでしょう。では、周囲はどうかというと、徹底的に同調して主観的な反応をするか、または冷静に客観的に反応するかです。

 

少し話は変わりますが、殺人があったとします。被害者の遺族は間違いなく主観的な反応をします。これに対して、遺族に同調するか冷静に判断するかは難しいですが、社会全般を考えれば、客観的に判断するしかありません。死刑を遺族が望んだとしても、簡単に死刑を選ぶわけにはいかない。法は冷たいという人は多いですが、遺族に徹底的に同調していれば、死刑囚はあっという間に今の何十倍にもなり、それは国家による殺人にほかならず、批判にさらされるでしょう。社会の秩序を守るためには、冷徹な判断も必要なのです。

閑話休題。

 

結論は出ませんが、しかし、僧侶としては、客観的な視点から、自分が正しいと思う話を自信を持ってさせていただくしかないのでしょう。もちろん、遺族の想いに寄り添いつつ。

 

死は悲しいけれど、仕方のないこと。仕方のないことをどうにかしようとするから苦しい。苦しみから脱却するためには、いい意味での諦念しかない。まだ、その域には達していない私だからこそ、遺族に寄り添えるのだと信じて。

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