法要の意味

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法要の意味

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2018/03/16 法要の意味

以前、住職個人のサイトに記載した内容のものを、加筆訂正して再度公表します。少し長いですが、ご容赦ください。(現在、古くなった住職個人のサイトを整理中で、こちらに順次移動させようと思っています。)

 

    • 極楽浄土への道

人は死ねばごみになる。何代か前の検事総長(検察官のトップ)が、このようなタイトルの本を著し、当時話題になりました。科学的、物理的にいえば、確かに人間の身体も朽ち果てて、ごみに等しくなるのは間違いのないことでしょう。科学を信奉する人(科学教信者と名付けたい)が日一日と多くなる昨今、葬式の意味も、以後の法要の意味も、ますます薄れてきているように感じます。では、葬式も何もかも、必要ないことなのでしょうか。仏教の世界においては、一般的に、人は死ぬと七日七日の極楽浄土に至る審判を受けて、めでたく四九日目(四十九日(しじゅうくにち)、七七日(なななぬか)または満中陰(まんちゅういん)と言います)に成仏するというふうに考えられています。このような考え方は、科学的には否定されるでしょうが、死後はきっといい世界に生まれ変われると信じること自体を、誰も否定できません。また、誰もそういった世界は存在しないということを証明できない以上、全く否定するのもいかがなものでしょうか。科学の恩恵を受けて生活している現代人として、科学を否定するつもりはありませんが、科学で証明されないからそれは存在しない、というのは科学が絶対であるということを前提にしなければならないことであり、私はそのような考えに与(くみ)したくはありません。科学が万能であるというのは、人間の思い上がりではないでしょうか。

 

    • 浄土真宗の考え方

極楽浄土の存在を、仏教の一つの流れである浄土真宗においても肯定していることは当然です。では、そこに至る葬式や中陰(死後七日ごとの法要のこと。これが満ちるから七七日を満中陰という)についてはどうでしょうか。この点について、浄土真宗の開祖親鸞聖人は明快です。親鸞聖人は直々に正信偈を含む長編の教行信証や、多くの和讃をお書きになって自らの教義を明らかにされましたが、私どもが最も端的に触れることができるのは歎異抄(たんにしょう。歎異鈔とも書く)という書物(諸説あるところですが、弟子の唯円が、聖人の述べたことをまとめたものだというのが、通説)です。この歎異抄第5条には「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍も念仏まおしたること、いまだ候はず。その故は、一切の有情は皆もて世世生生の父母兄弟なり。いづれもいづれも、順次生に仏になりてたすけ候べきなり。・・・」という節があり、簡単に言ってしまえば親鸞は父母兄弟に対して手を合わせて念仏を唱えたことはない、なぜなら生きとし生けるものは皆自分とつながる生命だ、だからそれら皆が順に仏になってしまってから生きとし生けるものをたすけるべきなのだという意味です。これはこれだけ読んでいればなんと親不孝な教えだなあといった感じですが、奥は非常に深いのです。普通は僧侶も含めてその力は大したものではありません。人を救えるほどの力がある人がいるのなら、この世の不幸をすべてなくしてもらいたいものです。ただしどこぞのエセ宗教団体のように人を殺して人を助けることはできませんが。私達ができることは、とにかく阿弥陀如来のお力にすがって、成仏し、そして阿弥陀如来の光の一部となって、死後、広く世界の生きとし生けるものを救うべきことだけだ。それが、浄土真宗の教えですから、当然父母兄弟が死んだからといって、それを成仏させるために手を合わせるなど、到底できるわけがないのです。

実際、浄土真宗では本来の葬式においては中心には阿弥陀如来を、脇に遺体を置くことになっておりまして、拝む相手は阿弥陀様です。住宅事情によりましてそのような方式をとることが難しいので、阿弥陀如来立像の前に遺体を置くような場合が多いですが−というより現在は一般化していますが−、本来はそうです。ただ誤解していただきたくないのは、親鸞聖人は、浄土真宗は、父母兄弟を敬うことをするな、といっているわけではないことは明らかです。あくまで歎異抄の第五条では我ら凡夫には父母兄弟を成仏させる力はない、ということを述べているだけなのです。

 

  • 法要の意味

では、一体葬式とか、満中陰とか、一周忌、三回忌(それぞれ、1年後、2年後の命日)の法要の意味はなんなのか、ということですが、私は、亡き人との永久の別れを惜しみ、また時たま亡き人を思い出して皆でしみじみと亡き人のことを語らう、そのような場であると考えています。普段何気なく生活しておりますと、ふと亡き人のことが浮かんでくることがありますが、それで供養としては十分なわけですけれども、皆で集まって語らうことであの世にその声が届いて、「ああ皆仲良く元気にやってるな」と亡き人はあの世で喜んでくれることでしょう。そして、この世に残された私達はこの機会に普段は気にしない自分の生き方、生きる姿勢などを、再確認する、そのような場であるのではないでしょうか。ですから、決して華美なものである必要はなく、自分の気持と、財布の中身と、いろんなことを総合的に判断してごく質素なものでも決して間違いではありません。葬式を懐具合でやり方を変えるのは不謹慎だとも思いません。要は心ですから。

 

  • あの世はあるか

このお話の流れにおいては少し余談になりますが、いつでしたか以前、理系出身だが読書好きで宗教にも造詣の深い者を含む何人かの友人と死後の世界についての議論になりました。命を粗末にしている現代社会において、なんとか歯止めをかけることはできないものか、と。そういう意味で、極楽浄土というものがあって、そこに誰でも生まれ変われる、という考えをとる真宗では、全然歯止めにはならないように思えます。ただ実は、歎異抄の中で、「地獄に堕ちようとも、地獄もまた住処である」という趣旨の記載があります。本来、仏教的にはあの世の存在を認めない、というか、「いくら考えてもわからないことにくよくよして時間を無駄に費やすな」という考え方があります。ですから、あの世があるとか、極楽浄土に行けるんだとか、そんなことはあまり考えなくてよい。むしろ各自が、命を粗末にせず、生を全うし、かつ死の恐怖に飲まれないような心づもりをすればよいのです。
先ほどの友人は、「俺は死=無だと思っている、死後の世界はないけれども、何もない世界だ、地獄だ極楽だというよりも、あの世が”無”だと思った方が、よほど怖いし、長生きしたいと思う」という意見でした。なるほど、と思いました。
私は、極楽浄土はあるかもしれないし、ないかもしれない、地獄もあるかもしれないし、ないかもしれない、というスタンスです。「何だ、それじゃ救われないじゃないか」とお思いかもしれません。しかし、時には方便を用いることもまた一興。私自身、死を考えたとき、極楽浄土がある、と思った方が気が楽ですし、地獄に堕ちるかもしれない、と思った方が、この世での生を一生懸命生きようという気になれます。だけれど一方で、例えばかわいがってくれた祖父の死を考えれば、地獄に堕ちたとは思いたくないですし、「無」に帰ったとも思いたくない。極楽浄土できっと私たちを見守ってくれていると思いたい。また、どんな極悪人でも、あの世では改心していると思えた方が、やはり気が楽です。でも、極悪人は地獄に堕ちやがれ、と思った方が気が楽な人もいるでしょう。それは個人個人、心の中の問題だと思うのです。

 

ちなみに、車椅子の博士として有名な故ホーキング博士は、無神論者だったそうです。それでも、宇宙の真理を見つけることは神の心を知ることになると発言されたとか。神と仏は別物ですが、少なくとも「人智を超える何か」を比喩した表現であることは事実だと思います(私は無神(仏)論者ではありませんが)。

 

  • 法要の意味再考

最近は自分の葬式を先に決めておくという人もいるそうです。残された人に負担をかけないという意味では、悪いことではないかもしれません。無宗教でやってほしいという人も少なくないと言います。それについては、仏教の僧侶としては内心忸怩たる思いがありますが、それもまた仕方ないのかもしれません。やはり、心の問題ですから。ただ、私は、仏教はまた広く宗教は、今生きている人のためのものであると思うのです。すなわち、死んで送られる人にとっては確かに人生最後のイベントということになりますから、大事かもしれません。しかし一方で、葬式は、またそのあとに続く法要は、今生きている人が、故人をどのように送りたいのか、また、自らの生に対する思い、宗教に対する思いを考える、考え直す機会でもあるのだと強く確信するのです。
だからこそ、今生きている人の意見を取り入れた葬式を、法要を、してほしいと思うのです。そして、今生きている人は、どのように送るべきなのか、送られるべきなのかを、常に考えておいてほしいと思うのです。

そういった意味で、私は、とりわけ本当に信仰が生じたときには、自分が供養する義務のある人が亡くなったわけではなくとも、仏壇を買うべきだと機会ある毎に述べております。実際は信仰には仏壇も必要ないけれど、仏壇があるだけで自分の生き様を考えさせられる機会が増えると思うからです。仏壇もない、信仰心もないという方でも、そのような機会が、仏のご縁、亡き人のご縁で与えられるわけで、そのような機会にいろいろとお考えになるのは有意義であると思います。

あの世はあるのかないのか、極楽浄土に生まれ変わって、今度は自分がまたこの世の皆を救う光となるのだ、という浄土教(浄土宗、浄土真宗など、極楽浄土に生まれ変わるのだ、という思想を有する仏教諸宗の総称)の考え方はどうなのか。難しいことはまだまだたくさんありますが、それは追々述べていきたいと思います。

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