自死ということ

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自死ということ

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2019/07/08 自死ということ

7月。梅雨の蒸し暑い時期になりましたが、関西はまだいつもよりは涼しい感じもします。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、夏に向かうこの時期は気候も爽やかであまり鬱々とした気持ちにはなりませんが、雨ばかり続くとやや気が重いこともありますね。5月には5月病があり、秋から冬にかけては、北日本では曇天も続き、ウィンタースポーツ好きとか、雪が好きとかでない限り、暗い気持ちになりがちです。

 

こんな明るい時期ではありますが、だからこそ、自死(自殺)について、考えてみたいと思います。

 

以前から申しておりますように、自然の摂理から言えば、天寿を全うするのが人間に与えられた課題です。他人を殺す権利も、自分を殺す権利も、ありえない。これが大原則です。生物界で、自死を選ぶ種族は、ゼロとは言えないが、あまりないでしょう。ところが人間は自死を選ぶ。

 

仏教の説話の中には、自死を肯定するものがあります。お釈迦様の前世において、食べられそうになっている動物の身代わりに、餌食になったともいいます。利他のための犠牲。

 

自死は、おそらく多くの方が心が弱いからだとお思いでしょうが、私にはそうは思えません。

 

人間、死ぬのが怖くはありませんか?

親鸞聖人と弟子の問答に、「阿弥陀様のお浄土に生まれ変わることができるのだから、早く死にたいものだと思えれば良さそうなものですが、なかなかそんな気持ちにはなれないのです」「そうか、実は私もそうだ、この世に未練がある、煩悩がある」「だからこそ、そんな我ら凡夫を、阿弥陀様は慈悲の心で見守ってくださるのだ」といったやりとりがあります。

死全般についての問答とは言え、自死もかなり高い壁を乗り越えないとできない。怖くて、痛くて、切なくて。それでもなお、自死を選んでしまう。

 

この世は苦ばかり。この自覚があるかどうか。ないなら、それは幸せです。しかしながら、やはり苦に満ち満ちているのがこの世ではないでしょうか。どんな金持ちであってもお金がなくなったらどうしよう、もっと増やすにはどうしたらいいのかと悩むでしょうし、どんな有名人でも、有名であるがゆえの苦悩は多々あると思います。苦を解決するために、どうするのか。

 

その解決法をめぐる見解の相違が、仏教と一口にいってもこれだけたくさんの宗派があることと大いに関係があるわけですが、まずもって、自分の中で解決せざるをえない。苦を克服するために、精神を統一し、心が揺らがない修行をする。そういう宗派もあります。一方で、我が浄土真宗のように、とりわけ死ぬのは怖いという苦に対して、阿弥陀様が建国された素晴らしいお浄土に生まれ変わることができるんだよ、何の苦もない世界だよ、そこに生まれ変わったなら、もうこの世の苦を背負うことはないし、ただ、阿弥陀様の光の一部となって、この世の人たちをまたお浄土に救う手助けができるんだよと考えます。

 

死は怖い。いくらお浄土に生まれ変わることができるといっても、怖いものは怖い。それが私たち煩悩にまみれた衆生の基本でしょう。それでもなお、自死を選ぶというのは、私はそれはその人の寿命ではないかと思います。

 

考えてみれば、死ぬほどの苦しみに悶々とし、「死にたい」と思う時期が、どれくらい続くかはわかりません。その期間は、その人が本当に弱っている時期かもしれません。(1)死にたいとは思わない、死が怖いと思う時期、(2)死にたいと悶々としている時期、(3)死んでしまった後または(3’)(1)の気持ちに引き戻された後、と、仮に3期に分けたとしましょう(私は心理学者でも精神科医でもありませんので、専門的にこのように分けることができるか否かはわかりません。ご容赦のほど)。(2)の時期は、どん底の時期でしょう。その後、(3)になるのか(3’)になるのかは、その人のご縁によると思います。ほんのちょっとのきっかけというか、宿業に影響されることです。

 

(3)になるのか、(3’)になるのか。おそらく、紙一重のことです。死ぬつもりで駅のホームに立っていた。まさに飛び込むつもりだったが、(ある意味お節介な)おじさんが声をかけてきて飛び込めなかったということもあるでしょうし、誰にも気づかれないまま飛び込んでしまったということもあるでしょう。

 

死んではいけない。天寿を全うしなければいけない。でも、この世に絶望して、自死を選んでしまった。誰一人、手を差し伸べてくれる人もなく。あるいは、自分から人に頼ることができなかった、強い人でもあったのかもしれない。愚痴の一つも言わず、ただ一人苦悩と立ち向かっていた。立ち向かってはいたものの、刀は折れ、矢は尽きて、もう、自死しか残されていなかった。自死を選んだ人を非難することなんて、誰にもできません。私の敬愛する一休さんも、若かりし頃に自死に及んだというエピソードが残ってます。幸いにも未遂で終わりましたが。

 

死なずに、この世の生を全うしましょう。自死に至ったものの未遂で終わった人たちは、全てではないものの、大抵「生きててよかった」と思うようです。

 

とはいえ、自死を選んだ人はただ弱い人だというだけではなく、一人で苦と立ち向かう勇者でもあるのです。勇者が、苦悩に負けて死を選んだとすれば、それはその人の運命、天寿だとしか思えません。怪獣(苦悩)が強すぎて、負けてしまったウルトラマンを誰も咎めはしないでしょう。「頑張れ、頑張れ」と応援したものの、ダメだった。残念だったとは思っても、「バカじゃないの」とは思わないはずです。だって、他の誰一人、その人の苦悩と戦えるわけではなく、ウルトラマンだけが、戦うことができたのですから。

 

繰り返しになりますが、生きて、生きて、生きぬきましょう。この世は苦だらけですが、その苦から、一輪の花も咲きます。押しつぶされそうな絶望のこの世ではありますし、人間はそれに耐えることができない、何ともちっぽけな弱い生き物です。でもね、少しばかりの「楽」によって、この世に絶望した気持ちからなんとか持ちこたえることのできる強さも、人間は兼ね備えています。

辛い時ほど、笑いましょう。笑えば鬱のタネは、どこかに飛んでいきます。笑えないほど疲れたときは、ご縁に委ねるしかありません。でも、無理にでも笑いましょう。

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