批判することの難しさ

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批判することの難しさ

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2019/12/12 批判することの難しさ

少し前から、炎上という言葉がよくニュースになるように、お門違いのものも含め、有名人に対してだけでなく、一般人に対しても多くの批判が寄せられることがあります。もう結構日が経ちましたが、山梨の女児不明事件についても、お母さんに多くの批判がなされていると言います。心痛めているお母さんに、です。

しかし、批判というのは、批判することに対する大きな責任を伴うことに、当のご本人は気づいていないことが多いのではないかと思います。

 

大きな責任というのは、別に刑事責任、民事責任といった、おおごとになって初めて現れるものだけでなく、批判に対する反批判に耐えられる大義名分があり、倫理的道徳的に許容される批判をしなければならないという意味での、責任のことです。

 

法的な根拠なく批判を繰り返すケースが少なくないと言います。また、単なる暇つぶしないしは嫌がらせの類の批判も多いようです。

 

ネットでの誹謗中傷は、自殺者を出す事態に発展することもあり、それに対して怒りのコメントを出す著名人の方もおられます。

武井壮の苦言

 

もっともここでは、そういったことではなく、ごく真面目な批判について考えたいと思います。ある人の態度に対して、別の人が批判をしたとします。ブログで書いた一言がどうも問題のある発言だ。だから教えてあげよう。こういう理由でおかしいよと。

 

でも考えてみてほしいのは、ブログでの発言はその人の考え方のほんの一部です。こうしたらいいかああしたらいいかと悩んだ結果、こんなやり方でやってみようかと考えた。それをブログに書いた。

 

そのブログのことだけを叩かれても、その批判された人にすれば「これまで色々試行錯誤して、こういうやり方もあるかと思ってやってるんだ、批判だけされても…」という思いしか抱かないのではないでしょうか。

 

ネット上ではありませんが、毒親の類で、長年にわたって別に暮らしている息子に対して、仕事ぶりや生活態度についていつまでも3歳児のように文句ばかり言う母親もいます。息子の一挙手一投足を知るわけでもないのに批判されても、息子の耳には届かないでしょうね。

 

批判というのは、心を通わせる関係性があって初めて成り立つものではないか。そんな気がしています。大学教員として多くの学生と接してきましたが、週に1回ゼミで顔をあわせるだけの関係では、学生の耳には私の想いが届いていないと感じることが少なくありません。酒を酌み交わしたり、時には一緒に旅行したりする中で、人と人との関係性が生まれ、言葉も通じるのではないでしょうか。彼らにとって、私は単なるマシン、人間味のない「先生ロボット」なのかもしれません。

 

ハラスメントは、関係性のない中でなされるからハラスメントなのだと思います。上司が部下に叱責するのは、成長を願ってのはずですが、上司にそういう気持ちが伴っていないか、少なくとも部下に思いが届いていないからハラスメントになります。

 

セクハラにしたって、すべきでない相手にするからセクハラなんです。仲のいい異性にしたってセクハラにはならないのが一般的。もっとも、時と場合をわきまえないと、カップル間でもセクハラになることはあります。

 

ネット上での一面だけに批判するというのは、全く関係性のない批判なので、批判にはなっていない。少なくとも建設的な批判ではないと思います。批判される側が、「確かにそうだよな」と思えたり、批判する側に対して「いや、こういうことなんですよ」と釈明したり、その釈明を聞いて批判する側も「なるほど、そうであるなら、こうではないか」と会話、言葉のキャッチボールができて初めて批判は成立する。

 

ネット上で、一方的に批判し、批判される側の状況などおかまいなしの批判は批判ではなくて単なる暇つぶしの類と言われても仕方ないのではないでしょうか。

 

(付記)関係性がなくても心に響くことはあります。著者をよく知らない本から何かを学んだり、歴史上の人物の生き様に共感したり。これは、自分に対する直接の批判ではないという側面もありますが、その文章や言動を通じて、その人に対してそれなりの敬意(という関係性)を持っているから心に響くんだと思います。

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