いじめとか差別とか、東京五輪に思うこと

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いじめとか差別とか、東京五輪に思うこと

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2021/07/24 いじめとか差別とか、東京五輪に思うこと

この文章を書こうと思ったきっかけは、ここ最近問題になっていたオリンピックの開会式の楽曲担当者が、少年時代に障害者である同級生に対してひどいいじめをし、そのことを30年ほど前に雑誌で自慢話のように話していたことでした。結局、その楽曲担当者は開会式直前のこの時期に、辞退することになりました。そのような結果になったことは仕方ないと思いますし、楽曲担当者を擁護するつもりはありません。

 

さて、オリンピックはケチばかりついて、一体それでもする意味って何なんだろうと、そんなことを堂々めぐりに考えてばかりです。

 

まず、オリンピックに対する私の個人的な見解を申しておきますと、商業主義的なオリンピックを、このご時世、招致する必要はないだろうと以前から思っております。前回の東京オリンピックが高度経済成長と相まって大成功に終わったことが、成功体験として50代以上の日本人に刷り込まれているように思いますが(ついでに言えば大阪万博とペアですね、前回も今回も)、オリンピック(や万博)が経済成長をもたらしたのではなく、経済成長しているからこそオリンピックがマッチしただけのことです。オリンピック開催に一定の経済効果はあるものの、1960年以降、オリンピックをしたことが契機となって経済成長を果たした国はないと言われています。ギリシャやブラジルはオリンピックが経済低迷のきっかけだったと思われます。

 

とは申せ、どうせ日本でするなら成功裡に終わらせてほしいし、日本を世界に発信する機会として頑張ってほしいと思っております。日本にとって金儲けにはならなくても、多くの感動で包まれるなら、それはそれで楽しい。多くの外国人が来日し良い国だと思って帰ってほしいし、選手たちも試合はもちろんのことオフも楽しんでほしい。無観客よりも有観客であるべきですし、そうでなければ日本でやった意味が、日本人にはありません。現地開催なのに現地人が観戦できないなんて、何の冗談でしょう。

 

突然のこのコロナ禍。これは誰のせいでもありませんが、それでもなお実施するという結論は、いただけません。例えば8年後12年後に日本開催をさせてもらうことで、今回は中止という選択肢もあったと思います(どうせなら有観客で日本人全員でお祭り騒ぎがしたかった)。契約(ネットで公開されています)上日本からは中止の決定はできないという話ですが、不可抗力の出来事が全世界を覆っているのですから、一定の契約変更(ないし解約)ができて然るべきです。

 

オリンピックのケチのつきはじめはロゴの盗作疑惑や会場建設の予算オーバー、招致の際に裏金が渡されていたのではないかという疑惑などでしたけれど、その後閉開会式の統括ディレクターの辞任問題などもあり、結果的に統括を置かないという前代未聞(?)の事態。そして開催前おそらく最後のケチが、開会式の楽曲担当者の障害者いじめ問題。もうどうしようもないですね。日本の闇が全世界に発信され、「クールジャパン」どころか「クールじゃないジャパン」です。どういうんでしょう、英語では。「バッドジャパン」?面白くないです。

 

誰か日本を貶めようとする人の陰謀としか思えない悪循環です。

 

このブログの本題は、しかしそこにはありません。楽曲担当者のいじめは別にして、このことを契機に、一般論として感じたことを以下記します。

 

私は小学生の頃若干いじめにあっていたこともありますが、だからといって、いじめっ子たちに復讐したいと思ったこともなく、そのことを社会に知らしめてずっと日陰を歩けと思ったこともありません。大人になってから同窓会で会っても、もしかすると向こうはいじめていることすら覚えていなかったのかもしれませんが、拍子抜けしたと言いますか、こんな程度のことだったのかとも思いました。

 

いじめ問題は、当事者間でどうしたいか、いじめられた方がどう思っているか、そこは大事な視点です。虐待に近い、場合によっては犯罪のようなことであるなら大問題です(小学生なら刑事犯罪として立件されることはありませんけれど)。

 

ただ、過去にいじめていたことで、今の重要な役職をやめなければならないというのもまた違うような気がしています。過去に大失敗をしたら、もうやり直すことはできないのでしょうか。

 

いじめっ子本人が悔い改めていたとすれば、過去にいじめがあったとしても、許していいのではないでしょうか。差別やいじめはないに越したことはないし、いじめっ子本人が全く悔い改めていないとすればそれは救いようのないことです。ただ、昔のことを掘り返して、当事者でもない多くの人がそれをネタに加害者を叩くのは、本当に不寛容ここに極まれりを感じます。

 

綺麗ごとを言うんじゃないよとお叱りを受けるかもしれませんが、差別やいじめに対して、差別やいじめで返しているような状況が目につきます。オリンピックの楽曲担当者のこともそうですが、いじめっ子をよってたかってみんなでいじめているようにも見えます。しかし、憎しみの連鎖は憎しみしか生み出さないのであり、憎しみの連鎖はどこかで断ち切る必要があります。

 

やり直そうとしている(かもしれない)人を、被害者でもない他人が叩いていいものかと、そこは本当にそう感じるのです。

 

人間は、そこまで不寛容な生き物なのでしょうか。いじめた人をいじめることも、差別する人を差別することも(区別はしたとしても)、してはいけないと思います。

 

日本という国を辱めることをした方々には心から悔い改めてほしいとは思いますが、自分たちの社会から締め出せばそれでよいのかというと、それよりも、仲間に取り込む方が、人口減少に向かっている高齢化日本にあって、大事なことではないでしょうか。

 

いつも思うのですが、敵を作ってそれを排除するよりも、ドラゴンボールの如く敵をどんどん味方にしていく方がいい。チェスのごとく取ったコマを使えない(捕虜扱い?)よりも、将棋のように仲間として使える方が、日本らしいと思うのは、私だけでしょうか。

 

いうまでもなく、寛容の心は、仏教の大事にするところです。赦すというのはなかなか難しいことではあるのですが。

 

補足:この文章を書いたのはオリンピック開会5日ほど前のことでした。ところが開会直前になって、さらにショーディレクターがホロコーストを過去に茶化したことがあったとかで解任されました(※)。いったいどうなっているのでしょう。日本人にとって、呪われたオリンピックになったとしか思えませんし、それこそオリンピックを中止にせよという何らかの見えざる力が働いているようにも思えます。本当に残念な五輪になってしまいました。出場選手にコロナ重症者が出るなどの被害が発生しないことを心から祈るばかりです。選手に何の罪もありません。同じく寛容の心で見守りたいところです。

 

(※)過去のネタについては、ユダヤ人団体から正式な抗議があったようですけれども、それだけ重大なことかもしれません。ただ、見る限りにおいて極東の国の若者が世界の空気を知らずにふと発してしまったことにも見え、いじめ問題とは性質が違う気がします。オリンピックという世界平和の象徴だからこそ問題になったのでしょうが、笑って許す大人の対応が現代社会にないのだとしたら、平和の祭典も絵に描いた餅に思えました。

 

補足(21.08.01):補足の補足になりますが、ショーディレクターの解任に関して、そのファンという方からの意見がありましたので、ご紹介します。その方もホロコーストを茶化したことは許されることではないとしながらも、決して彼が差別主義者ではない、差別主義者であるかのようにレッテル付けられるのが悲しいということで、彼のこれまでの行動をまとめておられます。よろしければ、ご覧ください。

 

小林賢太郎のいちファンです。いちファンですが、今回の件を過剰反応だとは思いません。しかし、ただただ悲しい気持ちでいます。

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