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「改めて問われる 宗教とは」を読んで
前回に引き続き、記事を読んで思うところを投稿いたします。
読売新聞令和4年9月22日付朝刊に、
改めて問われる 宗教とは
という記事が掲載されていました(リンク先記事は有料会員限定で、全文読めないかもしれませんがご容赦ください)。曹洞宗禅僧の南直哉師と、東京女子大学学長で神学者の森本あんり氏のインタビュー記事ですが、最近、まさに宗教が問われる事件がありました。両氏の見解に共感する点もあり、関連して私見を述べさせていただきます。
宗教は物事を解決するものではないと、私は考えている。信じるのはかまわないが頼ってはダメだ。どんな教えも、真に受けてはならないと、自分の説教では言っている。苦しくても、生きられるようにするのが宗教の役割。「問題は解決しないけど大丈夫だ」と。宗教はつえにはなっても、おんぶはしてくれないものだ。
一部抜粋したこの段落には、禅僧ならではの厳しい態度が見て取れ、真宗のように阿弥陀様に全てを委ねよとする教義とは異なる面が垣間見えるものの、本質的には同じ仏教。阿弥陀様を信じている私でも、この世の中で阿弥陀様が私を幸せに導いてくれるわけではありません。阿弥陀様に委ねるのはお浄土への道であって、それを前提としてこの世で生きていくのは私自身。我が身の寿命は委ねても、人生を全て委ねることはできません。何を幸せというのか、私を含めた人間、衆生にはわからないことです。お金持ちになっても病気になることもあります。病気は苦かというと人の優しさを感じるかもしれません。
寿命、すなわちいつお浄土に行けるかは、阿弥陀様に委ねることしかできないこの身ですが、では、自死はどうか。自分で寿命を決めたように思われますが、それも実は寿命かもしれません。私には自死を選ぶことはできない。普通はそうではないでしょうか。それでもなお、自死を選んだというのは、この世に絶望し生きることを諦めた状態。これは寿命と考えざるを得ないのではないでしょうか。
一般的には自死は人間社会で批判されますが、切腹は武士のたしなみでした。「早く死にたい」というのも「長生きしたい」というのも煩悩でできている凡夫の私のなせる感情です。どちらがいいのか、「苦のないお浄土」があるから早く死んだ方がいいとは言えませんが、長生きを望むこともまた煩悩そのものであって、そんなことを考えるのは人間だけでしょう。他の生物は、与えられた命の期間を懸命に生きるのみ。
宗教を信じるならば人を見るのではなく、教えを見る。信仰には、手間がかかる。キリスト教でも仏教でも、聖書なり経典なり、まず原典を読む。安易に考えたら取引になってしまう。「真に受けるな」とは言ったが、腹に落ちる言葉だけ信じれば、間違いは少ないだろう。
「取引になってしまう」というのは、例えばお金を積んだらこれだけのいいことがある、というのであればそれは取引だとおっしゃっています。変な例えで語弊があるかもしれませんが、競馬が好きな人が自分のお小遣いの範囲で、この馬を応援しようじゃないかと馬券を買ううちはその人の自由意思ですし例え捨て金となっても楽しいでしょうが、これだけつぎ込んだんだから万馬券が当たって当然だろう、当たらないなら借金してでも馬券を買うぞという意識になってしまったら、これはもう取引。しかも勝ち目のない。万馬券が当たらなければ闇に落ちていくだけです。
話題となっている新興宗教はいろいろ詐欺や脅迫的な「集金」をしていたのかもしれません(詳細は存じません)が、健全な宗教でも「集金」は必要になります。教義そのものや教団組織を維持するためには霞を食っているわけにはいきません。ですから、門徒さんが自由意志でできる範囲での喜捨・布施は私もお願いするしかありません。話題になった法隆寺のクラウドファンディングによる資金調達も、法隆寺をサポートしようと思う方の自由意志によって行われたものです。国宝や世界遺産とは縁のない当寺のような弱小零細寺院では同じことはできないかもしれませんが、でもできる範囲でいろんな「集金方法」を考える必要があるのです。
話が長くなりましたが、信仰とは解決の一助ではあっても全てではありません。私たちは答えのない世界、答えのない人生を生きているのです。まるで正解を与えてくれるような宗教は疑ってかかるべきです。信仰によって自らの苦が楽になり、苦しい人生が少しでも安楽を取り戻す。でも、それが正解ではない。全ては諸行無常。
もう一言付け加えれば、お釈迦様は対機説法を用いられたといいます。その人その人の苦の取り除き方は千差万別。経典も何百とあり(編纂したのはお釈迦様の弟子ですが)、宗派が分かれているのも、簡単に言ってしまえばどの経典を重視したかによって教えが異なるからです。苦も四苦八苦と言われるように少なくとも8つはありますし、苦を消し去る方法も人それぞれ。「何々のために効果的なたった一つの方法」なんて、単純にはいかないのが人生です。
ただ、キリスト教で「信じる者は救われる」というように、信じることは大事です。大事ですが、人が教祖である以上、その人もまた煩悩でできているわけです。信用できる師について学ぶことは重要ですが、さらに、確かな教えであるのか、原点(原典)に戻ることが大切なのです。僧侶も、確かな教えを信者の皆さんに伝えられるよう研鑽することが求められていると、肝に銘じているところです。
長くなりましたので森本氏のご意見に対する私見を述べることは、今回は控えておきます。長文ではありますが、皆さんの「宗教を考える」一助となれば幸いです。
#宗教
#改めて問われる宗教とは
#真宗佛光寺派
#仏教
24/10/12
24/07/18
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前回に引き続き、記事を読んで思うところを投稿いたします。
読売新聞令和4年9月22日付朝刊に、
改めて問われる 宗教とは
という記事が掲載されていました(リンク先記事は有料会員限定で、全文読めないかもしれませんがご容赦ください)。曹洞宗禅僧の南直哉師と、東京女子大学学長で神学者の森本あんり氏のインタビュー記事ですが、最近、まさに宗教が問われる事件がありました。両氏の見解に共感する点もあり、関連して私見を述べさせていただきます。
一部抜粋したこの段落には、禅僧ならではの厳しい態度が見て取れ、真宗のように阿弥陀様に全てを委ねよとする教義とは異なる面が垣間見えるものの、本質的には同じ仏教。阿弥陀様を信じている私でも、この世の中で阿弥陀様が私を幸せに導いてくれるわけではありません。阿弥陀様に委ねるのはお浄土への道であって、それを前提としてこの世で生きていくのは私自身。我が身の寿命は委ねても、人生を全て委ねることはできません。何を幸せというのか、私を含めた人間、衆生にはわからないことです。お金持ちになっても病気になることもあります。病気は苦かというと人の優しさを感じるかもしれません。
寿命、すなわちいつお浄土に行けるかは、阿弥陀様に委ねることしかできないこの身ですが、では、自死はどうか。自分で寿命を決めたように思われますが、それも実は寿命かもしれません。私には自死を選ぶことはできない。普通はそうではないでしょうか。それでもなお、自死を選んだというのは、この世に絶望し生きることを諦めた状態。これは寿命と考えざるを得ないのではないでしょうか。
一般的には自死は人間社会で批判されますが、切腹は武士のたしなみでした。「早く死にたい」というのも「長生きしたい」というのも煩悩でできている凡夫の私のなせる感情です。どちらがいいのか、「苦のないお浄土」があるから早く死んだ方がいいとは言えませんが、長生きを望むこともまた煩悩そのものであって、そんなことを考えるのは人間だけでしょう。他の生物は、与えられた命の期間を懸命に生きるのみ。
「取引になってしまう」というのは、例えばお金を積んだらこれだけのいいことがある、というのであればそれは取引だとおっしゃっています。変な例えで語弊があるかもしれませんが、競馬が好きな人が自分のお小遣いの範囲で、この馬を応援しようじゃないかと馬券を買ううちはその人の自由意思ですし例え捨て金となっても楽しいでしょうが、これだけつぎ込んだんだから万馬券が当たって当然だろう、当たらないなら借金してでも馬券を買うぞという意識になってしまったら、これはもう取引。しかも勝ち目のない。万馬券が当たらなければ闇に落ちていくだけです。
話題となっている新興宗教はいろいろ詐欺や脅迫的な「集金」をしていたのかもしれません(詳細は存じません)が、健全な宗教でも「集金」は必要になります。教義そのものや教団組織を維持するためには霞を食っているわけにはいきません。ですから、門徒さんが自由意志でできる範囲での喜捨・布施は私もお願いするしかありません。話題になった法隆寺のクラウドファンディングによる資金調達も、法隆寺をサポートしようと思う方の自由意志によって行われたものです。国宝や世界遺産とは縁のない当寺のような弱小零細寺院では同じことはできないかもしれませんが、でもできる範囲でいろんな「集金方法」を考える必要があるのです。
話が長くなりましたが、信仰とは解決の一助ではあっても全てではありません。私たちは答えのない世界、答えのない人生を生きているのです。まるで正解を与えてくれるような宗教は疑ってかかるべきです。信仰によって自らの苦が楽になり、苦しい人生が少しでも安楽を取り戻す。でも、それが正解ではない。全ては諸行無常。
もう一言付け加えれば、お釈迦様は対機説法を用いられたといいます。その人その人の苦の取り除き方は千差万別。経典も何百とあり(編纂したのはお釈迦様の弟子ですが)、宗派が分かれているのも、簡単に言ってしまえばどの経典を重視したかによって教えが異なるからです。苦も四苦八苦と言われるように少なくとも8つはありますし、苦を消し去る方法も人それぞれ。「何々のために効果的なたった一つの方法」なんて、単純にはいかないのが人生です。
ただ、キリスト教で「信じる者は救われる」というように、信じることは大事です。大事ですが、人が教祖である以上、その人もまた煩悩でできているわけです。信用できる師について学ぶことは重要ですが、さらに、確かな教えであるのか、原点(原典)に戻ることが大切なのです。僧侶も、確かな教えを信者の皆さんに伝えられるよう研鑽することが求められていると、肝に銘じているところです。
長くなりましたので森本氏のご意見に対する私見を述べることは、今回は控えておきます。長文ではありますが、皆さんの「宗教を考える」一助となれば幸いです。
#宗教
#改めて問われる宗教とは
#真宗佛光寺派
#仏教