人生の意味は

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2024/01/29 人生の意味は

 1月11日の日経新聞夕刊「あすへの話題」に、「再考・シーシュポス」と題する森岡正博さんの文章が掲載されていました。少し長いですが、全文引用しておきます。

「 人生の意味の哲学をテーマにした国際学会が設立されたのは、2018年のことである。きわめて最近のことだ。

 もちろん、これまでも、人生の意味は様々な分野で熱く語られてきた。20世紀半ばには、サルトル、カミュらの実存主義が登場して、「人生は生きるに値するのか」と問いかけた。彼らの思索は、今日の人生の意味の哲学の源流のひとつである。

 カミュはギリシア神話に登場するシーシュポスの物語を引き合いに出す。シーシュポスは神々から罰を受けて、巨大な岩を山頂まで押し上げる労働を命じられるが、その岩は山頂に届く直前で、かならず麓まで転げ落ちる。シーシュポスはこの苦行を永遠に繰り返さなくてはならない。このような人生にどんな意味があるのだろうか。

 哲学者リチャード・テイラーは、シーシュポスに薬物を注入して、岩を押し上げたいという衝動を脳に埋め込めばいいと考えた。そうすれば岩の押し上げはシーシュポスに大きな充実感を与えるだろうから、彼の人生は有意味なものになるはずだというのである。

 これに対して、哲学者スーザン・ウルフは、薬物シーシュポスの人生には意味がないと主張する。なぜなら、本人の精神が薬物でハイになっているだけであって、彼が社会に客観的な「良さ」を生み出そうとしているわけではないからだ。

 しかしそんなことを言うのなら、自分が心から幸せになることを第一に目指して生きる人生には、まったく意味がないことになる。「そのとおりだ」という言葉がウルフの哲学からは聞こえてきそうなのだ。」

 

毎週書かれており、1月18日夕刊にも、関連する内容の文章が掲載されていました。その後も引き続き、氏の哲学に関するエッセーが掲載されています。

哲学という言葉自体は、人間の知りたいという欲求からくるもので、アメリカでの博士号のことをPh.D(Doctor of philosophy)といいますが、あらゆる学問は哲学から派生したとも言えます。

 

仏教も哲学といえば哲学。生を扱うものです。なぜ生きるのか。人生はなぜこんなに苦しいのか。そういう思いがあれば、それを解決したいという欲求が生まれないでしょうか。その際に役立つのが、仏の教えなのです。

 

お釈迦様は対機説法でした。その人に応じた解決案を提示した。言うなれば、塾で大勢の生徒を相手に教えるのではなく(そういう場合もあったようですが)、家庭教師として生徒に応じたやり方を示したのです。ソクラテスメソッドというのはご存知かもしれません。それと同じものだと言えます。

 

森岡氏は、18日の文章で「この世にはまったく意味のない人生というものがあるのだ。たとえば、ヒトラーや、オウム真理教の教祖の麻原は、この世に悪しかもたらさなかったから、その人生はまったく無意味なのだ。あなたは、もし仮に麻原が自分の人生には大きな意味があったと言ったとしたら、それを認めるのですか?」という問いかけを提示されます。

 

皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 

十人十色というように、人それぞれ。私は、意味のない人生などないと思います。ただ、そこには主観と客観があるし、本人からの主観と客観もあれば、他者からの主観と客観もある。本人にとって意味があるんだと思っているのに他人が意味がないというのもおかしいですし、ある人からは意味がなくても、ある人からは意味があるかもしれない。

 

ヒトラーや麻原は悪人かもしれないし、社会的には害しかなさなかったかもしれないが、本人的には意味があったかもしれないし、社会的にも、逆説的には意味があったといえます。そのような悪に対してどう対応すべきかと社会が考える契機になったからです。

 

善や悪の判断は、人間が煩悩のままにしていることです。害虫益虫と分けるのが一番わかりやすいですが、例えば浮気、不倫は常に不倫か。夫婦間でどうぞ外で自由になさってくださいと許容している場合でもダメなのか。また、もし許容していても、許容されている夫が、別の既婚の女性と男女の関係になっていればどうなのか。

 

私が言いたいのは、人生の意味や善悪は人それぞれではないかということに尽きます。他人が、ある人の人生が意味がないと判断することを是とすれば、何年か前に起こった障害者の大量殺人の犯人を是認することになります。

 

もちろん、麻薬を使用して「ハイになって」生きている人を是とすることは、社会に害をなす可能性を考えると難しいですが、結局は、必ずしも物事に正解はないということです。

 

知りたいという欲求の前には、固定観念は不要というよりも、むしろ邪魔です。このような原因があって結果があるというのは、因果応報、お釈迦さまの説かれた真理の一つです。ただ、原因は一つではないし、結果も一つではない。

 

善悪の線引きが、差別を助長していないか。殺人にしても、よく言うのが、1人殺せば犯罪だが、戦争で100人敵を殺せば英雄。どちらも人を殺しているのだから悪に違いないはずなのに。

 

善も悪も、結局は人の都合によるものです。そして、善だ悪だということが、差別を助長する面もある。

 

私は法学者でもありますので、この世のルールに則って、裁かれるべき悪もありそのことは否定しませんが、それはそれ。悪をなしても人は人。罪業の中にあるからそんなことをしたに過ぎない。罪業のない人は、いくら人を殺せと命令されても殺せません。

 

この世のルールに則って、後ろ指を刺されない生き方をしましょう。でも、もし後ろ指を刺されることがあったとしても、生きる意味は、誰しもあるのです。少なくとも、人間の善悪とは違う基準で。

 

長い文章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。とにかく、考えて悩んで、思考停止にならずにこの世の生を全うしたい。私は、常にそう思っています。

 

(4月3日、若干文章を修正しました。)

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